「お客さんと長いお付き合いに
なるように、と信州で開業」
白馬風の子
大畠俊昭さん | 神奈川県生まれ。小さい頃から出歩くのが好きで、小学校高学年の頃には自転車で横浜から小田原や三浦半島に出かけていた。1988年宿開業。ほぼ同時期に宿のヘルパー仲間だった春代さんと結婚。当初ひとりで宿をやるつもりだったため居住空間を考えておらず次女が誕生するまで今は物置となっている3畳間で暮らしていた。現在は4人姉妹の父。バイクに乗るのも好きだが、「ひとりで出かけるのが心苦しい」となかなか走行距離が伸びず。 |
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高校時代、自分が親しんだ自然が街中から失われていくのを見て山村留学施設の運営を考えるように。しかし、北海道へのひとり旅をきっかけに宿業へ路線を変更。長野県白馬村で開業する。当初の建物はインダストリアル調だったが、機能面、デザイン面で好みのものに近づけるため改装を重ね、現在はナチュラルテイストの宿になっている。館内の雑貨類は女性客に好評だが、ほとんどが大畠さんの好み。主に家族で海外に行った際に買い集めたものを飾っている。とほ宿には珍しくシングルの個室あり。
山村留学施設をつくるという夢が
北海道ひとり旅を経て宿開業に
―置いてある雑貨も、その配置もすごく素敵だし、お庭もきれいにされてますよね。
大畠
ありがとうございます。
―大畠さんは北海道斜里町のとほ宿「風の子」の立ち上げにも関わっていらっしゃいますが、長野県の白馬村で宿を開業してからも30年以上ですね。
大畠
元々は、子どもの山村留学みたいのをやりたいと思っていたんですよ。出身は横浜市のわりと中心部のほうなんですが、小さい頃は山でクワガタを捕ったり、沼でカエルやドジョウを捕ったりしていました。
―横浜で!
大畠
そうなんです。でも数年経つと山を削って谷を埋めて高層の団地ができていって。高校の帰りに子どもたちが道路で遊んでいるのを見て、もっと自然の中で遊ばせてあげたいなと。それで子どもをあずかる施設をやりたいと思うようになったんです。
―横浜から少し離れた場所でですか?
大畠
信州っていうのは決めていました。でもひとりで北海道に行くようになってだんだん宿をやりたいなと思うようになったんです。
―最初に北海道にひとりで行ったのはいつなんですか?
大畠
高校を卒業したときですね。3月1日から大学がはじまるギリギリまで、1か月ちょっと道内をまわっていました。学割の2割引きに冬期の2割引きもあって、北海道周遊券がすごく安かったんですよ。ユースホステルを中心にまわっていたけど、いろんな人と知り合えるのが楽しかったですね。宿で会った人と別の場所でまた偶然会ったりとか、そういう楽しみも知って。
―で、その後大学に入学されたんですね。
大畠
大学には入学したけど、1年で退学しました。学校は好きだったんですけど勉強は好きじゃなかったし。宿をやるんだったらお金を貯めたほうがいいんじゃないかなと思って、今で言うフリーターに。年金とか長い目で見ると正社員のほうがよかったかもしれないけど、月々入ってくるものはバイトのほうがよかったし、掛け持ちもできたんで。
―大学を1年で辞めてすぐ北海道に行かれたんですか?
大畠
そうですね。移住というか、3年くらいはいたのかな北海道に。でも最初から宿は信州でというのはだいたい決めていました。
―それはどうしてですか?
大畠
若い頃に北海道を旅していた人が、10年経って家族3、4人で北海道にまた行けるかと言ったら難しい気がして。でも信州だったら、週末とかに気軽に来てもらえる施設ができるんじゃないかって思ったんです。知り合った人となるべく長いお付き合いをしたいとも考えていたので。
―確かに信州は首都圏や関西圏からの週末旅にはちょうどいいですよね。北海道にいる間は何をしていたんですか?
大畠
冬は製糖工場、夏はサロマ湖の近くにある宿で働いていることが多かったかな。3シーズンいて、その後は神奈川に帰ってバイト。夜も飲み屋さんで働いて、週末はスキーツアーのバイトもしたり。2つ3つは掛け持ちでやっていました。
―働きましたね!
大畠
サロマ湖の宿の仕事がすごくつらかったんですよ。だから、それ以降はどんな仕事をしてもラクですね(笑)。いま過労死のラインって残業が月100時間って言われているけど、北海道から帰ってきて働いていた電気関係の会社では200時間超えていた時もあった。でも残業代はきちんと出たんでうれしかったですね。サロマ湖の宿なんて残業時間は200時間じゃきかない(笑)! 朝4時から11時過ぎまで働いて、本当に寝る時間がなかった。しかも賃金は安かったし。でもご飯は出してもらってたからね…。
―それにしても、ですね。
大畠
今だったら問題になるよね(笑)。
―そこで鍛えられたわけですね(笑)。
大畠
はるちゃんと知り合ったのもこの宿です。
春代
当時は顔見知り程度だったけど、そういうひどい環境で働いているとヘルパー同士の結束力が強くて(笑)、いい友達もできました。
―はは。斜里町の「風の子」宿主、飯村大二郎さんと知り合ったのも北海道ですか?
大畠
そうです。一度神奈川に帰ってきたあとですね。神奈川に帰ってきて、いよいよ白馬で宿をやることになって。初心に返るじゃないですけど、もう一度北海道で働こうと、またサロマ湖の宿に行ったんです。そのときに会ったんだと思います。1984年だったかな。飯村さんは最初避暑のような感じで東京から北海道に来ていたみたいなんだけど、自分が白馬で宿をやるっていう話をしたら、一緒に斜里で宿をやることになって。85年の5月に北海道に行って物件を探しはじめて6月に空き家が見つかって7月にはもうオープンしちゃった。
ー早!
大畠
最初はもぐりでやろう、くらいに考えていたんだけど(笑)、保健所に聞いたらこことここを直せばいいよーみたいな感じで。許可が出ちゃったんで、お風呂を付けるのもやめて毎日温泉ツアーやって。逆にそれはそれで喜ばれた。白馬でやるよりもお客さんは多かったですね。
―「風の子」という名前は大畠さんが付けたそうですね。
大畠
東北でも宿をやりたいなと考えていた時期があって、宿の屋号は「風の又三郎」(岩手県出身の宮沢賢治作)のイメージで「風の子」にしようってそれだけ決めていたんです。それで飯村さんと宿をはじめるときに、自分は白馬ではじめる宿の名前を「風の子」にするという話をしたら、じゃあそれでいいんじゃない?くらいな感じで。僕が斜里にいたのは最初のシーズンだけでしたが、斜里にあるのと同じ名前の宿が白馬にあるって、不思議に思って来てくれる人もいますよ。
―この場所はどうやって探したんですか?
大畠
信州というのは決めていたけど、具体的にどこというのはなくて。いま宿が建っているこの場所は、元々父親の知り合いが持っていた土地だったんです。買ったときの値段で譲ると言ってくれたんですけど、最初は八ヶ岳周辺が第一候補でした。当時この辺りはペンションがはやっていたことと、自分としてはいなか暮らしにあこがれがあって。野辺山の農家で働いていた時期もあったし、小さいころ野辺山で蒸気機関車を見たこともあっていい印象だったんですよね。でもそのうちとほ宿の「こっつぁんち」もできちゃったんで、すっぱりと野辺山はやめたんです。じゃあ白馬でいいや、みたいな感じでね。
ーそうだったんですね。
大畠
でも今では白馬で開業して本当によかったと思っていますよ。暮らしやすいということもあるし山はもちろん、海も1時間くらいで行ける。松本城や立山黒部アルペンルートなどの観光スポットも多くて、僕たち自身がここでの生活を楽しんでます。
―ご自身がその土地での暮らしを楽しんでいると、宿泊する人にもその土地が魅力的に見えると思いますよ。斜里で「風の子」を開業したのが1985年。
大畠
僕が25歳のときですね。
―そのあと、「白馬風の子」を開業したのが1988年ですよね。お金は順調にたまっていたんですか?
大畠
そうですね。親の援助もなしではじめましたけど、よくやれていたなと思います。当時、夏はお客さんが少なかったけど、冬はスキーブームもあり多くのお客さんが来てくださったので助かりました。それでも11、12月あたりは現金がなくてお客さんの予約金で自転車操業みたいな感じでしたけど(笑)。
―そんな時代があったんですね。
大畠
そのころはバブルだったからローンの審査もゆるかったのかな。でも金利もすごくて。よく返せたなと思います(笑)。
インダストリアル調で建てられた宿を
ナチュラルテイストにコツコツ改装
―「白馬風の子」は来るたびに何かしら建物に変化がありますよね(笑)。前回はテラスができたばかりでしたが…。すべてご自身で作っているんですか?
大畠
いや、すごくいい大工さんと知り合えたのでほとんど頼んじゃってます。大工仕事はきらいじゃないけど、そこに時間を取られると宿の仕事ができなくなっちゃうし、大工さんにお願いしたほうが早い。…あ、そういえばお風呂場が露天風呂風になりましたよ。外気に触れられるっていうだけで露天ではないんですけど。夏は涼しくていいんです。
春代
これは自分で作業したんだよね。
大畠
窓の外を囲ったんですよ。
―風流~。
春代
温泉に行く人が減りました。うちのお風呂でいいやって。
―常にどこを直そうかって考えているんですか?
大畠
1度にできないですからね。開業当時からそのままの部分って言ったら、リビングの壁と階段と2階の廊下ぐらいかな。最初の設計は北海道で知り合った人に頼んだんですよ。いまはカントリーテイストというかナチュラルな雰囲気の建物になっているけど、新築当時は、工業的なデザインで。客室はコンクリート打ちっぱなし風で外壁も波板のスレートだったんです。
―この建物が元々そうだったなんて、ちょっと信じられません…。
大畠
玄関の門柱はいま擬石で覆ってますけど、わざと錆びさせた鉄管を使っていて。玄関にはちょっと転んだら危険なぐらい金属片を埋め込んでいたりね。設計士さんもまわりから、なんで旋盤で削ったカスなんかいるんだとか言われてたみたい(笑)。…先端を行っていたんだろうけど、僕がそこまで追いついてなくて。
―ご自身はどういう建物をイメージしていたんですか?
大畠
自分の中では許可が下りる建物であればいいやって。元々は廃屋利用でやりたいと思っていたくらいなんです。でも長野県は保健所が厳しくて。いまはどうかわからないけど簡易宿所では営業の許可が下りづらくて、うちは旅館業で許可を取りました。廃屋を使って小ぎれいな古民家の宿にすればよかったのかもしれないけどそんなにお金をかけるつもりなくやっていたんで。でも最初に「こういうつくりにしたい」っていう考えをもう少し細かく持っていれば後からお金をかけなくてすんだかなとは思いますけどね。
―じゃあ建物を建てるにあたって、要望は一切なかったんですか?
大畠
食堂と寝室は振り分けて、ということはお願いしました。
―そういえば別の棟になっていますね。
大畠
食堂の上に寝室があると音がどうしても響くんで。うちでは消灯時間は設けていないので休みたい人は寝室で休んで、起きていたい方は食堂でご自由に、というスタイルを取っています。
―注文はそれくらいだったんですか?
大畠
あとは、バイクの人に来てもらいたいっていうのと雪が落ちる傾斜のある屋根にしてほしいっていうくらい。でも設計士さんには「バイク」っていうイメージが強かったみたい(笑)。図面を上から見ると、四角い建物をわざわざ丸く見えるようにして食堂のほうでタイヤひとつ。寝室側でひとつ。その2つを細い廊下で結ぶという2輪車をイメージしたものになっていた。
―あ~言われてみれば…。
大畠
バイクのケーブルをイメージしたのか、館内外に赤、黄、青の色がところどころにあったし。よくお客さんから、まだ工事中ですかって言われたよね(笑)。
―あはは。
大畠
あと、食堂にはペアガラスを入れていたのに、ほかには断熱材が全然入ってなくて寒かった。
―大畠さんがこの建物を変えてきたのは機能的な問題からだったんですか? 見栄えの問題ですか?
大畠
寒かったし、見栄え的にも…自分の好みとは少し違っていたので。二度手間ではあったけど、その分変化してきたからいいかなって(笑)。
―お客さんは来るたびに変化があって楽しいと思いますよ。少しずつ変えてきた中で、一番こだわったのはどこなんですか?
大畠
12年前の水まわりの改装。特にトイレは必ず使う場所だから。
―水まわりがきれいって大事ですよね。
春代
特に女性のお客様に喜んでいただいています。客層も小さなお子様連れからおじいちゃん、おばあちゃんを連れて、と幅広くなりました。お父さんとお母さんを連れて来てくれる人はそれまでもいたけど、改装後は増えましたね。
大畠
とほ宿とかユースを使わない人にも来てもらえる宿をある程度目指していたんで。個室を設けたのも、とほでは早いほうだったと思います。
―シングルの客室があるとほ宿は、今でもたぶん数えるほどだと思いますよ。
春代
とほ宿とは違うんじゃないかって言われたりもしました。
―宿主さんそれぞれの考え方がありますからね。
春代
でも「いつもは相部屋だけど、たまにはゆっくり個室で」という方もいらっしゃって、需要はあると思います。
大畠
北海道旅行っていうと非日常に近いものがあると思うけど、うちの場合は疲れを癒しに来る部分もあると思うんです。お客さんもほとんど社会人だから。
春代
1泊で来る人が多いしね。
大畠
いま新しいおうちはどんどん立派になってるし、そういうのを考えると宿も更新していかないとって思います。
海外への家族旅行で得た
インテリア・庭のイメージを館内に反映
―お庭はいつからきれいにされているんですか?
大畠
昔からやってたけど、背が高い草が出てきてメリハリが出てきたかな。
―その前はどうなっていたんですか?
春代
プランターに花を植えていた程度。昔はあんまり考えてなくて一年草ばかりでしたね。家族で海外に行くようになって、現地の素敵なお庭を見て私たちもこうしたいな、とイメージがわくようになったんです。
大畠
いま海外は全然行かないけど、20年くらい前はよく行っていたんですよ。6月と11月は宿が暇なんで。
春代
子どもたちは、2週間くらい学校休ませて(笑)。
大畠
カナダとかアメリカとかではホームセンターめぐりをしてました。アンティークとかも買ったり。
春代
リュックサックいっぱいの松ぼっくりとかレーキ(西洋風熊手)とか、出入国審査の時に何に使うのって言われたり(笑)。
―松ぼっくり?
春代
どっかの道で拾ったもの(笑)。「こんなの持って帰っていいのかな、ダメって言われたら捨てればいいや」ってリュックに詰めて持ってきました(※現在は制度が変わり、海外からの松ぼっくりの持ち込みには書類が必要です)。
大畠
行くときはちょっとした着替えだけ持って、そこら辺行くのと同じ格好で身軽に出かけて。買ったものを詰めるリュック自体を旅先で買ってた。
春代
アンティーク調のものとかも昔は日本では売ってなくて。
大畠
洗面所の水栓もアメリカで買ってきたもの。買ってみたらメイドイン台湾だったけど(笑)。いまはネットで買えるから、本当に楽になりました。木の洗濯ばさみなんかは百円均一のお店で買えるけど、当時はなかったから。
―当時買い付けてきたものを売ったら売れたでしょうね~。
大畠
いや~こういうのがうちにあったらどうかなと思いながらやっている程度だったから(笑)。
ー買ったものをどう組み合わせるか、もセンスがないと難しいんですよ。
大畠
買ってきちゃったから使わないと(笑)。
ーそうやって、家族で海外に行っていろいろ買い集めていたんですね。
春代
うーん、お店はついで。
大畠
道路端に雰囲気のいいお店があればのぞくって感じ。
―じゃあメインは観光だったんですか?
春代
アメリカだったら国立公園めぐりかな。子どもたちに日本にない景色を見せてあげたいなと思って。
―そのついでに仕入れていたんですね。
大畠
当時、飛行機代も安かったんですよ。燃料サーチャージもなくて往復で3万3000円とかね。
―いい時代でしたね! いつごろまでご家族で行っていたんですか?
春代
15、16年前くらいまでかな。
大畠
いまはパスポートも持ってないもんね。
春代
子どもが2人の時に行っていたんだけど、一番上の子が中学1年のときが最後。子どもたちが学校を休めなくなってきて。下の2人はそんなに海外には行きたがらなくて。飛行機も嫌いだし。
大畠
2人は国内旅行で満足してるもんね。
春代
四国に行ったときは和式トイレでお遍路さんが泊まるような宿にも泊まったよね。
―娘さんたちはどうでしたか?
春代
楽しかったみたい。宿の人がとほ宿みたいにフレンドリーだったんだよね。そういうところに行くと喜ぶんだなって。
大畠
いろんなところに出かけると、「いいアイデアだな」と思うものもあるし、自分の宿をこう変えたいというイメージがわいたりします。ハード面、ソフト面の両方で参考になることが多いですね。
―31年やってらしても、外に出るとまだそうやって参考になることがあるんですね。
春代
ありますよ、やっぱり。止まっちゃいけないですよね。
―宿業って終わりがないですね。本気でやろうと思ったら次から次へとやることがある。
大畠
みんなが来てくれるから変えていく資本・資金ができるわけで。自分たちの暮らしのことも考えないといけないけど、お客さんから預かっているお金をうまくまわして還元できればいいかなって思いますね。
―利用する側としては、そういう宿はやっぱりまた来ようと思いますよ。
大畠
新しい人に来てもらいたいのはもちろん、1度泊まっていただいた方にもまた来ていていただきたいんです。最近は20年ぶりに来たという方たちがいてとてもうれしいですね。そういう方たちに喜んでいただくためにもハード、ソフトの両面で日々改善していかなくてはと思っています。
―次回はどこが変わってるのかな(笑)。また来るのが楽しみです!
2019.3.19
文・市村雅代