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とほ宿めぐり

北海道風民宿 ポッポのお宿

「18歳のときと同じことを
いまもやっているだけ」

北海道風民宿 ポッポのお宿

谷口彰さん 通称ポッポさん。京都府で呉服店の次男として誕生。小学校の低学年まではお金に不自由しない環境だった。高校時代から自分でアルバイトをして旅費を稼ぐようになり、ユースを使って旅をするようになる。そのころに知り合いになった「こっつぁんち」(長野県)の古藤均さんとは約50年の付き合い。1984年開業。阪神ファンで、お酒が大好き。

高校時代にユースホステルを使っての旅にどっぷり浸かり、旅先で知り合った人との交流でさらに深みにはまっていった。その後、ツアーや旅に関するイベントを次々に企画。合計約4年の会社員時代を経て、再び旅の世界に戻り宿を開業した。北海道が大好きで毎年6月に北海道のとほ宿を巡る旅に出て、情報を仕入れている。第2土曜はジンギスカンなどを提供する「北海道食べよう会」、第3週は「お寿司食べよう会」など毎週土曜日に「~食べよう会」を実施。

旅仲間との出会いで

人生が方向付けられた高校時代

 

―北アルプスの玄関口である長野県大町市にある宿なのに「北海道風」。ポッポさんと言えば、知る人ぞ知る北海道好きですが、ご出身はどちらなんですか?

 

ポッポ

京都です。京都御所の真横に住んでいました。実家が呉服屋だったんです。景気のいい時代には番頭さんもいるような店だったんですけどね…(笑)。

 

―そんなお坊ちゃんが、なぜ宿をはじめることになったんですか?

 

ポッポ

旅でユースホステルを使っているうちにユースが好きになって、最終的にはどこかでユースみたいな宿をやりたいと思いはじめたという…だいたいみなさんと同じですよ!

 

―みなさんそれぞれですよ(笑)! どういうきっかけで旅をするようになったんですか?

 

ポッポ

ポッポです。

 

―…えーっと?

 

ポッポ

SLを撮って歩いていたので。

 

―あー、それで「ポッポ」! 

 

ポッポ

「汽車ポッポヤロー」というペンネームで鉄道雑誌に投稿していたんです。ほとんど載らなかったけど(笑)。

 

―それはいつごろのことなんですか?

 

ポッポ

撮りだしたのは中学生のころかな。SLがブームになる前。でも3、4年経ってくると、SLを撮る人がそこら中にいて、もういいやとカメラを置いたわけです(笑)。写真を撮るためにいろんなユースに泊まって、それからユース自体もおもしろいなと思って旅がはじまって、撮り鉄から乗り鉄になっていくという。

 

鉄道好きの片鱗は館内のあちこちに

 

―なるほど~。

 

ポッポ

ユースにはじめて泊まったのは高校1年の春休み。高校の仲間と一緒に四国に行こうということになったんだけど、僕だけ4日ほど早く出て山陽山陰地方をまわることにして。1泊目は松江のユースに泊まったんだけど、夜のミーティングで自己紹介をするのがイヤでね。全然なじめなかった。でも2日目に100人くらいでフルーツバスケットみたいなゲームをしたら楽しくなってきて。ところが3日目に広島のユースに泊まったら、夜のミーティングはなし。つまらないので、自分でみんなを集めてミーティングしたという(笑)。

 

―はは。最初のユース旅ですっかりはまちゃったんですね。

 

ポッポ

全日本ユースラリーという、各都道府県からいろんなユースが集まって出し物をする集まりが年に1回あったんだけど、それに京都のユースの人間として参加したことでまた意識が変わってきたというか。

 

―それはいつの話ですか?

 

ポッポ

高校時代。そこで知り合った人に広島のユースと瀬戸内海の真鍋島にあるユースを教えてもらって夏休みにヘルパーをしに行ったり。

 

―高校時代に、そこまではまってしまったんですね。

 

ポッポ

だから学校も行けなかった(笑)。

 

―あはは。

 

ポッポ

ユースラリーで知り合った連中と山梨県の清里のユースに集まろうということになったんだけど、みんなが来たときにスタッフとして働いていて驚かせてやろうと思って、ユース宛てに「スタッフをやらせてください」と手紙を出して。で、「おいで」っていう返事をくれたのが当時サブペアレントをしていたこっつぁん(「こっつぁんち」(長野県)の古藤均さん)。

 

―お、早々に名前が出てきましたね!

 

ポッポ

仲間たちが来てからは、こっつぁんもいろいろ気を使ってくれて楽しく過ごしたんだけど、みんなが帰るときに掃除をさぼって勝手に駅まで見送りに行ってしまって、こっつぁんからお小言を…(笑)。ちゃんと言えば許可を出すのにって。今後宿をやるんなら一番大事なことだから、と言われて。それからこっつぁんのしつけがはじまり今に至るんだけど。

 

―まだしつけが終わらないんですね…。

 

ポッポ

18のときだから、50年近く前の話。

 

―50年間小言を言われ続けているんですか!

 

ポッポ

いやいやオレが助けているの(笑)。

 

―そういうことを言う(笑)。

 

ポッポ

別の旅のグループとは東京の代々木で全国から旅人を集めてフェスティバルをしたり。与論島に行くツアーを組んだり。そのとき、九州の指宿のユースに集合して行ったんだけど、そこで次の夏からヘルパーやらないかみたいな話になって。それで指宿(鹿児島県)にどんどん行くようになった。

 

―指宿は京都からでも遠いですよね。

 

ポッポ

ヒッチハイクだから、毎回。

 

―行きたい場所に向かう車にタイミングよく乗ることはできるものなんですか?

 

ポッポ

だいたい2日あったら京都から鹿児島まで着きましたね。

 

―2日というと宿はどうしていたんですか?

 

ポッポ

知り合った旅人のところに泊まってました。

 

―すごい! なんだか、もっと旅は自由で気軽なものだと気づかされたというか…。いつごろから、宿を自分で運営したいなと思いはじめたんですか?

 

ポッポ

高校を卒業する寸前かな。そういう気持ちになったのはね。実際に動いたのはもっと先だけど。

 

―高校3年生になると進路をいろいろ考えると思いますが、そのときの選択肢にはまだ入ってこなかったんですか?

 

ポッポ

まだまだ。当時はなんとなく大学?っていう感じでした。

 

―じゃあなんとなく進学して…。

 

ポッポ

入りたかった大学に入れなくてショックで…(笑)。系列校だったから必ず入れるはずだったのに、なぜかオレだけ入れなかった。

 

―なぜかって…。

 

ポッポ

いろいろ理由はあったみたい(笑)。大学に入って1年はまともにいったけど、2年はほとんど行かず…。そんな中で、与論島はまた行きたいなと思ったけど、先輩が誰も企画しなかったから、結局自分で「ポッポの会」という与論島ツアーを組み立てて先輩がやっていたように離島した人の家を1週間くらい借りて遊んだり。春は木曽路ツアーとか、沖縄が返還された年には本部半島から伊是名島に行くツアーを組んだり。

 

―すごい企画力と実行力。

 

旅の企画を次々にたてていた20歳のころ

 

ポッポ

それ以外の時間は大阪で添乗員のバイトをして。

 

ーぴったりのバイトですね。

 

ポッポ

指宿のユースに働きに行く夏休みと春休み以外はフリーで働いていたから雇う方にとっても便利な存在だったんじゃないですか? ぽんぽんってのし上がっていって(笑)。学生仲間から優秀なヤツを引き抜いて自分の派閥を作って、次は誰と誰にお願いしますって仕事を振り分けてました。

 

―途中から仕切る方になっていたということですか?

 

ポッポ

そう。それでも春と夏は指宿に働きに行ってました。

 

―ユースでの仕事が好きだったんですね。もう大学に行っている暇がないですね。

 

ポッポ

大学は2年で…。

 

―中退したんですか!?

 

ポッポ

中退って言うか、除籍ですね。

 

―親泣きますよ。

 

ポッポ

泣いてましたよ(笑)。

 

4年間の会社員時代を経て

再び「旅人」に

 

―じゃあ2年で大学生活は終了して…。

 

ポッポ

彼女を追いかけて東京に行ったり、関西に戻ったりしてまた東京へ。

 

―そういうタイプなんだったんですね! 東京に再び行ったのはどうしてですか。

 

ポッポ

失恋の痛みを癒やすため…。

 

―あ~振られちゃったんですね(笑)。

 

ポッポ

人生に悩んで、京都駅で南に行こうか北に行こうか考えて。でも、これで指宿に行っても同じような人生になっちゃうな、と思って向かったのが東京。ユースで知り合った人の家に住まわせてもらって広告代理店に勤めたけど…こういうのは自分の人生じゃないなと思って1年で辞めて。どうしようと思ったときに、今度は新宿駅からついつい清里っていうか、こっつぁんのいるほうに足が向いたっていう。

 

―泣きつきに(笑)。

 

ポッポ

そうそう(笑)。しばらくいさせてもらった後、清里にある大きなリゾート施設で働いて。その後、そこで知り合った関西の人の会社で働かせてもらって。その合計約4年半だけ厚生年金。

 

清里のリゾート施設では、洋食の調理を担当。宿の料理はお酒のつまみにすることも考えた和食中心のメニュー

 

―「会社員」として働いた時期だったわけですね。

 

ポッポ

でも、関西の会社で働いているうちに、もうちょっといろいろやりたいな、と思いはじめて。尾瀬に行く、富士山の頂上に登る、北海道に行って流氷を見る。そのどれを一番最初にやるかなと考えて、まずは流氷を見に行こうと8月に稟議書を出してみたんです。

 

―冬の休みを取るために、8月に!?

 

ポッポ

有給を使って8日間の予定で行くので認めてくださいって。でも言った瞬間にダメだ、と。

 

―残念ですね…。

 

ポッポ

会社は普段から有給を使えって言っているし、休みの間の仕事の割り振りも全部していたのに…。課長とは個人的によく飲みに行ってたから、課長会議にかけてくださいってお願いしたんだけど、その課長からもちょっときついぞって言われてしまって。

 

―8日間も休みを取るなんて当時はとんでもないという感じだったんですかね。

 

ポッポ

そうそう。それで最後に部長会議にかけられない?って聞いたら、だめだと思うけど一応って課長さんが言ってくれて。そうしたら明くる日、総務部長が僕のところに来て、行ってきてもいいよって。そのかわり帰って来なくていいよって。

 

―あーそういうことか。

 

ポッポ

2月まで勤めれば勤続3年になって退職金も出せるからって、その話が決まってからさらに半年は勤めたんだけどね。

 

ーそういうことで辞めることになったわけですね。

 

ポッポ

いよいよ2月末に出発して青函連絡船で上陸して、札幌で振り込みを確認したら規定の退職金より多く入っていたから(笑)。

 

ー会社も配慮してくれたのかな…。

 

好条件の宿を引き継ぎ開業

北海道は今でも遊びに行く場所

 

―ともかくも、そうやって行きたかった冬の北海道に行くことはできたんですね。

 

ポッポ

3月から9月くらいまでいたかな。後にとほ宿になるような宿に泊まってね。サロマの宿には42泊くらいしたね(笑)。そのときは、もう自分で宿をやろうと決めていて。それで9月にこっつぁんちに帰ってきて…。

 

―こっつぁんちに帰ってきたんですか?

 

ポッポ

そう。それから自分で宿のための場所を探しはじめたわけ。でも、こっつぁんちの近くじゃだめだし。

 

―北海道ではなく、本州で探していたんですね。

 

ポッポ

自分が東京とか関西に住んでいたときに、週末に1泊で行ける所ばかりに行っていて。仲間もその近辺にいっぱいいるから、その範囲で探そうと思って。

 

―長野は関東からも関西からもアクセスできていいですよね。

 

ポッポ

最初は木曽路(長野県塩尻市から岐阜県中津川市にかけてのエリア)のほうで探しはじめたんだよね。

 

―だいぶ絞られていたんですね。

 

ポッポ

大町周辺のユースを基点に上高地周辺を探して。各役場でもちゃんと対応してくれるわけですよ。開発している別荘地とかを紹介してくれて、ぜひとも来てくれと言う。それで、野麦峠の近くにほぼ決めていたんだけど、ユースの仲間から不便な場所だからひとりでやるならお客さんの送迎が大変だよと言われて。どうしようと思っていたら、安曇野のユースが、いまうちの宿が建っているこの場所に国民宿舎を持っていて、お金はいつでもいいからやってみる?って。それで仕事を辞めたその年に宿を開業することになっちゃった。本当は長野に住んで働きながらじっくり探そうと思っていたのに。で、有り金を全部渡して元のオーナーが組んでいたローンを全部オレが引き継ぐ形で、12月にオープン。その時点でお正月の予約も全部入っていた。

 

―いいはじまりですね。

 

ポッポ

目の前がスキー場だったしね。

 

―すごくいい条件じゃないですか。

 

ポッポ

でも僕的にはスキー目当てのお客さんや国民宿舎のお客さんは僕のお客さんじゃなかった。

 

―「僕のお客さん」っていうのはどういう人を指すんですか?

 

ポッポ

とほ宿を使って旅をするような、自由に動く人たちっていうか。国民宿舎に泊まるお客さんは家族連れが多いし、お客はあくまでもお客っていう感じで。とほ宿に泊まるような、宿主との距離感が近いお客さんとはちょっと違っていた。だから翌年からは混む時期は国民宿舎のお客さんはお断りして。国民宿舎のほうが料金設定が高かったからもったいなかったけどね(笑)。

 

北海道の情報誌などが置かれている談話室

 

―じゃあ少しずつ、自分のスタイルにしていったということですか?

 

ポッポ

途中で国民宿舎から抜けたから。国民宿舎協会からは、やめるのは簡単だけど、とは言われたけど。

 

―もったいないって言う人もいたのでは。

 

ポッポ

いたけど、自分のやりたいこととは違っていたし。…決して国民宿舎に来るお客さんが悪いって言ってるんじゃなくて、それはそれという話なんだけど。

 

―ポッポさんがやりたかった方向性とは違っていたということですね。この建物は当時からのものですか?

 

ポッポ

昔は50、60人くらい泊まれる規模だったけど、ぼろぼろだったので宿をはじめてから4、5年たったときに建て直して6部屋、20人の規模(当時)にした。

 

―50、60人の時代もひとりで運営していたんですか?

 

ポッポ

最初はひとり。忙しい時期には旅先で知り合った子が多いときで7、8人手伝いに来てくれたけどね。目の前がスキー場だから、貸しスキーはするわ、昼間食堂はするわで。

 

―かなりもうかったんじゃないですか?

 

ポッポ

だからこそ、建物を建て替えられたんだけどね。

 

―確かに。

 

ポッポ

当時宿泊料が3000円で、貸しスキーが3000円だったのね。だから意図しないところでお金が入ってきた。これでこっつぁんの小言がなければよかったんだけど(笑)。

 

―言われないようにすればいいだけのことでは…。

 

ポッポ

1時間説教するのにわざわざ2時間も車で走ってきて、泊まりもしないで帰って行くんだよ。おまえの最近の行動が~とかなんとか。

 

―とか言いつつ、何かというとこっつぁんを頼っていたわけじゃないですか。

 

ポッポ

宿の名前も、先にこっつぁんが「こっつぁんち」ってつけたから、オレも「ポッポのお宿」って。

 

―こっつぁんが大好きなんですね(笑)。

 

ポッポ

そうですね(笑)。

 

―北海道へは、いまも毎年6月に行って旅行をしていますよね。

 

ポッポ

梅雨の時期は開業した次の年からほぼ毎年北海道へ。北海道はやっぱり、自分には遊びの場所ですよね。

 

―自分が休みに行く所なんですね。

 

ポッポ

あと北海道のとほ宿に、長野県のとほ宿の…フライヤーって言うの? ちらしを持って行ったり。ポッポのお宿のちらし? それは宿主が来ているからいいって(笑)。北海道に行けばみんなと知り合いになって、情報もたくさん入ってくる。だから6月に行くのが楽しみ。

 

―ポッポのお宿の客室にはとほ宿の名前が付けられていますよね。

 

客室には道内のとほ宿の名前が付けられている

 

ポッポ

部屋の名前に使わせてもらっている宿に自分のところ(ポッポのお宿)を加えて、全部に泊まると無料宿泊できるっていう企画をしたこともある。無料になるのはうちだけなんだけど、ほかの宿にスタンプを押してくれるようにお願いして。そうすると向こうも気を使って、信州に行くならこういう宿があるからって紹介してくれたり。昔、北海道の浜中町にお寿司を出すとほ宿があって、そこの宿主が泊まりに来たときには、うちでもその宿の「ごっこ」遊びをして、お寿司を握ってみたり。全部遊びですよ。

 

―いまその名残で第3土曜日が「お寿司食べよう会」になっていますよね。とほ宿に泊まりに行くのは楽しみであり、宿の経営にもプラスに働いているんですね。

 

ポッポ

うちはネット環境がないから、とほという組織に属して本に載せてもらうことでやっていけるけど、正直、何の利益にならなくても、とほの一員でいられればいいの。僕には宿しかできない。

 

ーいや、ポッポさんってすごいアイデアマンだったんだって思いました。お話を聞いていると若いときからの企画力と行動力がすごい。

 

ポッポ

18歳のころにやっていたことをいまだにやっているだけ。気持ち的には、バカなおぼっちゃまのまま(笑)。なんだかんだ言って、「とんでもラッキー」な人生だったと思いますよ。

 

2019.1.22
文・市村雅代

 

 

北海道風民宿 ポッポのお宿

北海道風民宿 ポッポのお宿

〒398-0002
長野県大町市大町中山8293
TEL 0261-23-1700

次回(2/5予定)は「鱒や」橘利器さんです。

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