「北海道のこの空気やったら
自分でも何かできそう、と」
旅人宿 ドラム館
沢村昭治さん | 大阪府出身。沢村さんの宿開業に合わせて10匹のネコとともに一家で北海道へ。1992年宿開業。夜の演奏に兄の雅之さんは欠かせない存在で、沢村さんのパートナーの美穂さんが庭で丹精しているハーブや野菜が食卓を賑わす。「同じ時間なんやから、笑わな損!」というモットーのもと、会話にはだじゃれを挟み、小学生のようないたずらを仕掛けてくる。10人きょうだいの末っ子だが常連客やきょうだいからの愛称は「おっさん」。 |
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山登りとスキー。10代ではまったアウトドアが存分にできる、と20代で姉の誘いに乗りドイツアルプスの山小屋で働くことに。そこで自分の国のことをよく知らないことに気がつき、帰国後はまだ行ったことのなかった北海道へ。以降季節ごとに大阪と北海道を行き来する生活となり、30代で両親と兄と共に北海道へ移住し宿を開業。毎晩音楽を演奏する個性的な宿として多くのファンがいる。
姉に誘われ、ドイツへ
山小屋の仕事を経験
―ドイツの山小屋で働いていたことがあるとお聞きしました。
沢村
僕が22歳のときやね。ドイツ人と結婚していた2番目の姉が旦那さんと2人で山小屋を経営することになって「ぷらぷらしてんねんやったら来い!」って。
―はは。元々アウトドアはお好きだったんですか?
沢村
11歳違いの3番目の姉が山の会に入っていて、トレーニング代わりにしょっちゅう歩いていたんだけど、それについて行ってたって感じやね。それで山歩きが好きになってね。
―何歳くらいのときの話ですか。
沢村
小学校4年生くらいかな。10代後半くらいになると甥っ子、姪っ子を山へ連れて行ったりもしてた。
―どの辺の山を登られていたんですか?
沢村
六甲山系とか生駒山系、北摂(ほくせつ)の山々っていう感じ。
―ちなみに中学高校時代の部活は?
沢村
部活はやってなかったなぁ。高校はドロップアウトしてるしね。
―そうでしたか。
沢村
バイクは16歳の時から乗ってて、最初はバイクを修理する仕事して。で、バイクだけじゃいかんって思って自動車の修理工場にもいたね。そのころスキーにもはまってしまった。…いま考えるとスキーにはまったのが一番の理由かな、北海道移住の。スキーに行ったのは19歳のときかな? それで、次の年のシーズンにはもう車の修理の仕事を辞めてスキー場のバイトに行っちゃった(笑)。
―フットワークが軽すぎますよ! スキー場ではどんなアルバイトをしていたんですか?
沢村
ハチ高原(兵庫県)のロッジのアルバイトやね。料理したり接客したりするのが楽しかった。
―元々お料理は好きだったんですか?
沢村
そやね。子どものときからよく手伝わされたしね。おせちで使う里芋の皮むき係やったもん。あれ、みんないやがるんだよね。かゆくなるし。なんでわしにやらすねん!って。おとんぼ(末っ子)やのに…。
―いま宿のお料理は?
沢村
僕が作ってるよ!
―スキーや登山のエリアがだんだん拡大していったのはいつごろなんですか。
沢村
ドイツに行ったときやね。
―来てって言われて、やったーって感じだったんですか?
沢村
もちろん。スキーができるっていうのもあったからね。とにかくスキーがうまくなりたかった。
―山のどの辺にある小屋だったんですか?
沢村
標高1600m。料理も出して宿泊できる小屋。有名なノイシュヴァンシュタイン城ってあるやんか。縦走して行けばそのお城までいける場所。
―そこでどんなお仕事をしていたんですか?
沢村
枯れた木を切り倒して燃料にしたり、歩荷(ぼっか・荷揚げ)をしたり。普段はジープで運ぶんやけど、食品が足らないとかそんなときにやってた。ビールがなくなったから運んで来い、とかね。若いときやから、自分のほうが重い物を持てるとかそんな自慢しあうようなところもあったなぁ(笑)。
―ちなみに何キロくらいを担いでいたんですか?
沢村
何キロくらいか覚えてないけど、なんせ普通に担げない。ちょっと高いところに置いて体を入れて立ち上がる。
―それは相当重そう。
沢村
山歩きは厳しかったね。1回遭難しかけたこともある。年末年始に営業していたとき、いい天気だったから荷物を運んで来ようということになったんやけど、登ってくる途中で天候が急変して、腰まで雪に埋まるくらいになってしまった。なんとか山小屋から300m離れた小屋までたどりつけて、そこに荷物を置いて山小屋まで戻ろうとしたんだけど、玄関にあった旗を見た瞬間気を失った。
―よく無事にたどり着けましたね。遭難しなくてなによりです。
沢村
山をなめたらいかんなーと思ったよ。
帰国後は未経験の地、北海道へ
「自分にも何か…」の思いが芽生える
―この山小屋にはどのくらいいたんですか?
沢村
最初は2シーズンやね。その後、もう1回行ってる。
―ここで2シーズン過ごされてその後は?
沢村
いったん帰った。ドイツの人は会話が大好きやから、日本のことをバンバン聞いてくる。それで、知ってるつもりでも、まだ自分が日本のことを全然知らんなぁ、もっと日本のこと知らなあかんって。まだ北海道も行ってなかったなぁと。
―じゃあ帰国してまず北海道に来たんですか?
沢村
層雲峡の方に行ったのかな。それから帯広に行って…そこでお金が尽きた。あはは。最初から、北海道に行ったらアルバイトあるやろって感じで来てたから。
ーはは。
沢村
大樹町にあったミンクの飼育場でアルバイトすることになって、6月からいきなり冬までいたさ。バイト先で気に入られちゃって。
―ミンク!?
沢村
自分も「えー! 北海道にミンクなんかいてるんだ、おもしろそうやな」と(笑)。帰るときにはもう雪が降ってたから、仕方なしに飼育場にバイクを預けてね。春にバイク取りに来るからって。
―取りに来たんですか?
沢村
うん。で取りに来たら「仕事して」、「えっ!」って(笑)。
―また1サイクルはじまっちゃいますよ(笑)!
沢村
その年はちょっとだけね、働いたのは(笑)。その飼育場の所長が山登る人だったの。僕も山好きやったから人間的に引き合うものがあったのかな。
―そうだったんですね。
沢村
バイトが終わってからバイクで道内をチョロッと走って、帰る前にまた帯広の知り合いのところに寄ったら、大樹町の牧場で人手がなくて困ってるんだけどって…(笑)。
―ループじゃないですか!
沢村
僕はもう帰るって言ったんだけど、頼む、1週間でいいからいてくれって。
―今度は牛の世話をしに行ったわけですね。ホントに1週間だけですんだんですか?
沢村
結果、10日間やったけどな(笑)。その牧場がとほ宿の「セキレイ舘」のすぐとなりだったの。牧場主と前のセキレイ舘のオーナーが友達で。その10日の間に十勝の民宿ソフトボール大会があってそれに参加したり、セキレイ舘に泊まっている連中と一緒にバイクで林道走りに行ったり。
―じゃあ牧場の手伝いをしに行ったことでセキレイ舘とつながりができたんですね。
沢村
うん。そのソフトボール大会のときに、富良野でとほ宿をはじめるってヤツとも仲良くなって帰りに寄ってってことになったり。
―ここでいろいろ出てきましたね。20代後半くらいのことですよね。
沢村
そうやね。そのあと大阪に帰って2回目のドイツ行きかな。このときは年末までやね。
―それで帰国後は…。
沢村
大阪でバイトして夏になったら、もちろん北海道だよね。
―北海道以前はツーリングでどのへんをまわっていたんですか?
沢村
京都あたりとか奈良あたりとか。一番長いツーリングが山陰ぐるっと一周。そのあと四国一周とか。
―1回北海道に行ったその後は、もうそちらのほうには行かなくなってしまったのかなという印象を受けたんですが。
沢村
その通り。1回行ったらね、北海道にはまっちゃったからね。
―何がよかったんですか?
沢村
まずは景色が全然違う。広々しててホントに走りやすいっていうのもあったし。あと北海道の人間がすごい前向きな感じがして…たまたま僕が知り合った連中にそういう人たちが多かったのかもしれないけど、この空気やったら自分でも何かできそう、というイメージがあったよね。とほ宿も知って、こういう宿やったら自分でもできるやろっていう気持ちになったり。
―じゃあ2回目に北海道に来たときはもう宿をやろうと思っていたんですか?
沢村
完全じゃなかったけど、こういうことやったらできるかなとか。
―2回目のドイツのあとで北海道に行ったときは、どのあたりをまわっていたんですか?
沢村
旅しているうちに十勝が好きになったので、とりあえず帯広に住もうと思って。
―帯広で何をしようとしていたんですか?
沢村
もう物件探しだね。帯広で暮らしながらいい情報ないかなって、ちょこちょこバイトしながらやったね。ひと夏。
―物件探しと言うと、現実的な話で申し訳ないのですが、資金的な物はもう用意されていたんですか?
沢村
いや、大阪の家が道路用地にひっかかってたから。もう古い家やったし。
―じゃあ一家で北海道に来ることを考えて、物件探しされてたんですね。すぐに見つかったんですか?
沢村
いや、全然見つからへんかったね。
ーここはどうやって見つけたんですか?
沢村
最初は役場で話聞いたりしてたけど埒があかへんなと思って。新得が気に入ってたから、何かアルバイトないかなと思って。そうしたらスキー場のホテルで仕事があって。そこで知り合った地元の農家の人が、なんか空いてる土地あったぞって言ってくれたんがここだった。
―やっぱり地元民の情報は頼りになりますね。新得はなんで気に入っていたんですか?
沢村
阿寒から富良野までバイクで行ったときに、ふだんやったら帯広から国道38号をまっすぐ行ってたんだけど、近道しようと思っていまの国道274号、当時はまだ国道じゃなかったけど、のほうまわってみようと。直線道路だったから、早いと思って来たんだよ。砂利道で遅かったけど(笑)。で鹿追からこっちのほうに抜けるときに美蔓峠(びまんとうげ)ってあるんやけど、そこからの景色がよくて。いまもちょくちょく行く。峠自体は清水町やけど、見える景色がね、いつまでも頭に残ってて。大阪帰ってから地図見たら新得駅には全部の特急止まるし、あ、いいじゃんって思って。
―山は関係なかったんですか?
沢村
山が近いこともよかった。宿がオープンしたらガンガン登るぞと思ったけど、全然登れなかった(笑)。宿のほうが忙しくなって。
―じゃあいろいろ条件がそろって、新得いいなぁって思ったんですね。農家の方にここを紹介してもらったあとはとんとん拍子に進んだんですか?
沢村
そうやね。僕ひとりがポッと行ってもだめだったと思うけど、地元の人が話してくれたからね。土地を買ったのが91年。92年には宿をオープンしたんだよね。
ーその間に家を建てたんですね。
沢村
早くしなければって感じやった。…まじめな話、うまいこといってなかったらおやじもおふくろも阪神大震災で…。
―タイミング的に…。古い家だったっておっしゃってましたもんね。
沢村
そうそう。阪神大震災前にこっち引っ越して来られてよかった。なんかそういう風に急かされたよね。運命みたいなものを感じるときがあるけど。
―家を建てるときは、もう宿をやると決めていたんですね。
沢村
決まってたね。夏にオープンする予定やったから、冬の間に業者さん決めて、春になったら特急で建てて、って。
―春に建てはじめて夏にオープン? それは特急中の特急ですね!
沢村
一歩踏み出したらすごく早かった。そんだけのパワーが出た。自分でもびっくりするくらい。体がもうひとつほしいくらいやった。
―それで無事、夏にオープンしたんですか?
沢村
夏にオープンしたね。でも「とほ」の本に載ったのは93年から。宿の準備ができて連絡したら「もう遅い」って言われて、がくって(笑)。
―予定通りのタイミングで開業できただけでもすごいですよ。
一家で北海道に移住
兄の得意分野を宿の個性に
―「ドラム館」の”ドラム”って楽器のドラムですよね。最初この場所をいいなと思った北海道の景色とか山とかスキーより、この名前を聞くとやっぱり音楽って思っちゃうんですけど。
沢村
兄がいたからね。
―最初からお兄さんもここで一緒に宿をしていたんですか?
沢村
大阪で仕事してたけど、一緒に北海道行くぞって(笑)。
―このドラムセットは…。
沢村
元々あにやんのもの。あにやんも一緒にやるなら、音楽メインでやったらええなと思って。「ドラム館」の名付け親はうちのおふくろだったんだよね。
―そうなんですね。
沢村
屋号が全然決まらなくて。イメージがわく物がなかった。くまげらにするか、とか。でも、そんなんどっかにあったなぁって(笑)。どうしよう、って言ってたら、ふとおふくろが「あんたたち、どんちゃんやるんやったら『ドラム館』ってどう?」って。最初は「えーっドラム館!?」。やっぱりオイル缶のほうを想像して(笑)。でもちょっと待てよ、おもしろいやんって。実際にドラムやるからね。それでいこうって。
―それで決定(笑)。当時から夜に演奏してたんですか?
沢村
当時はあにやんのドラムソロからはじまって、あとはギターの弾き語りみたいな感じやったね。
―いまは、おふたりのベンチャーズメドレーの演奏があって、飛び入り参加型の歌あり演奏ありのひとときになっていますよね。
沢村
キーボードがうまい人が移住してきて、それがきっかけでバンドっぽくやるようになった。14年くらい前かな。それで音楽がより盛り上がるようになったね。
―私は、ずっと触ってみたかったドラムを演奏できてとても楽しかったです! お兄さんと沢村さんがわかりやすく教えてくださって、かつセッションまでしてもらって。私のペースに合わせてもらったので、うまく演奏できた気になりました(笑)。歌も、カラオケじゃなくてギターの生伴奏付きですからね。贅沢!
沢村
音楽好きな人ははまるよ~。
―たまに来る旅人は楽しいと思いますが、毎日演奏している沢村さんは…ぶっちゃけ飽きませんか?
沢村
飽きないね~。気乗りしないときでも演奏しているとノッてくる。音楽の力はすごいね。
―若いころはアウトドア中心の生活だったようですが、音楽も沢村さんの人生にずっとあったんですか?
沢村
うーん、あにやんが中学のときからバンドをやったりしてたから、ギターは耳に入ってたよね。当時あんまり興味はなかったけど、コードとかはあにやんがちょこっと教えてくれてた。でも、ギターにはまるきっかけになったのはやっぱりドイツかな。
―そうなんですね。
沢村
住んでいたところの近くに、音楽の演奏とかしているワインが飲めるお店があって。僕が行ったら、日本人が来てるってなって。ギターちょっと弾けるって言ったら、やれって(笑)。弾けるって言っても「さらば青春」、それ一曲だけやねん(笑)。それで、下手ながらもその1曲を演奏したら、わしの下手なギターでみんな、ワッて踊り出すんだよね。それ見てたら、すごい!おもしろいって思って(笑)。ギター練習しようかなって思ったけどなかなか機会なくて。帯広でバイトしてるときだね。バイトやから遊ぶに遊ばれへんしって、安いギターを1台買って。で一生懸命練習しはじめた。
―ドイツで踊ってくれた人がいたから今があるんですね。ドイツでの経験はものすごく沢村さんの人生に影響を与えたみたいですね。
沢村
そうやね。ガラッと変わった。人生の大きな転換期になった。…わしシャイだったんだよ。
―え! 本当ですか?
沢村
20歳のころはもじもじしているのがいやでね。高校退学してるから劣等感もあった。それが、ドイツに行って自分にもいろいろなことができるっていう自信になった。人とも話せるようになったしね。日本に帰ってきたら、ドイツ語を話しているだけで「インテリゲンチャや」って言われたり(笑)。
―本当にドイツに行く機会があってよかったですね。
沢村
メンタル的に強く、そしてよりバカになったね(笑)。賢い人はそんなことしないっていうことをするようになった。宿をはじめるに当たって、特に参考にした宿はなかったけど、大バカ民宿って言われるようになったら、かっこいいなーって思ってるよ(笑)。
2019.1.8
文・市村雅代