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とほ宿めぐり

利尻の見える小さなお宿 ばっかす

「利尻山の景色をみんなに
見せられたらいいなと思って」

利尻の見える小さなお宿 ばっかす

伊東幸さん 長野県出身。2003年宿開業。高校時代はフォークソング研究班。お酒の飲めない家系の中、唯一のお酒好き。宿名は「抜海」とギリシャ神話のお酒の神様「バッカス」の名前をかけたものに。片道乗車券を最大限有効に使っての鉄道旅をプランするのが一番の楽しみ。お酒を飲みながら車窓からの眺めを楽しむため、ボックス席のある各駅停車の路線を探して乗り継いでいる。

初めての北海道旅行で礼文島のユースホステルにどっぷりはまり北海道暮らしを夢見るように。旅行会社、IT関連企業での激務の9年間を経て、宿開業の修業のため1年間とほ宿でヘルパーに。その後、対岸に見える利尻山の姿にひかれ稚内市抜海で宿を開業した。1~3月は宗谷本線のラッセル車撮影ツアー、6月にはサロベツ湿原でのエゾカンゾウツアーを実施している。

先輩の勧めで礼文島へ

北海道に住むという夢を抱くように

 

―元々旅行系のお仕事をされていたとお聞きしましたが、宿をはじめるきっかけとなったのは何だったんですか?

 

伊東

大学3年のとき初めて北海道に来たんですよ。東京から。それで礼文島のユースに行ってどっぷりはまるわけですわ。はは。

 

―怖いですね~(笑)。

 

伊東

20日間くらいのバイト先の夏休み中だったんです。最初は行き先を決めていなかったんですが、先に休みを取っていたバイト先の先輩から休みに入る前の日に呼び出されて「朝イチでユースホステルの会員になって、稚内から礼文島に行け。港で旗振ってるヤツがいるからその人に今日泊まりたいと言え」と言われて。言われるがままに。

 

―ユースのどういうところにはまっちゃったんですか?

 

伊東

フォーク音楽が大好きだったんだけど、1980年代後半ってフォークが最も日本で虐げられていた時代なんですよ(笑)。イカ天(テレビ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」)ブームってやつで。「“4畳半音楽”の何がいいんだ」みたいな感じ。

 

―バンド全盛の時代ですもんね。

 

高校2年生のときに買ったギター。このギターを背負って旅をした。かぐや姫や初期のアルフィーのファン

 

伊東

でもそこのユースに行ったらまさにフォークの世界なわけ。それではまっちゃったのかな。泊まり合わせた人と行った「愛とロマンの8時間コース(トレッキングコース)」もすごく楽しくて。当初2泊の予定を3泊に延ばして、それから知床に向かったんだけど、8時間一緒に歩いた仲間のこととかを思い出したらさみしくなって。それでもう1回行ったんです、礼文島に。

 

―戻ったんですか!?

 

伊東

それでまた8時間コースを歩いて。それが本当に楽しかった。無二の親友と言えるヤツともそこで知り合ったんです。それが本当に礼文にどっぷりはまったきっかけですね。

 

―どうしてそんなに8時間コースが楽しかったんでしょうか。

 

伊東

メンバーだよね、やっぱり。彦さん(星観荘(礼文島)の新山彦司さん)が去年「人は人を旅する」っていう名文句を新聞に寄稿したけど、あれは本当にそのとおりだなって。旅っていうのは人との出会いを探して行くのかな。

 

―先輩に勧められなければ礼文島には行かなかったんですよね。

 

伊東

北海道ってやっぱり遠いじゃないですか。だからまだ食指が動いてなかった。まだまだ本州で楽しかった。でもこの北海道旅行をきっかけに北海道以外はほとんど行かなくなってしまったんですよ。ほかのエリアに行くとしたら、このユースがらみになっちゃった。大会(宿のオーナーや利用者たちの飲み会)に合わせて京都に行くとか。

 

―もうどっぷりですね。

 

伊東

大きく僕の人生を変えた約20日間の旅でした。たぶんこのときに北海道に住みたいって思いはじめたんだと思います。

 

―大学卒業後はどうされたんですか?

 

伊東

実は大学院を目指していました。あと5年旅ができるっていう理由で(笑)。でもそんな動機だから受かるわけもなく。2年連続で試験に落ちて、大学5年の秋から就職先を探したんです。趣味はいろいろあったけど、就職に結びつくものが旅行しか思いつかなかったんです。それで人気のあった旅行会社に順番に電話をかけていくわけですよ。

 

―一般的には就職活動は終了している時期ですが…。

 

伊東

1、2社目からはもう終わってるからって断られて。ところが3社目はとりあえず来いって言ってくれて。試験を受けました。

 

―ほかにも受験した人はいたんですか?

 

伊東

僕ひとりだけ。特例中の特例だったと思う。自分でももう就職は無理だろうと思っていたから、言い訳のための就職活動だったんですよ。ところがそこに拾われちゃって。

 

―よかったじゃないですか!

 

伊東さん自身が「大食いだったから」とボリューム満点の夕食。写真は道産豚のメンチカツ。料理は手作りのため、満室のときは14時ころから厨房に入るそう

 

伊東

それなのに、卒業旅行で行った礼文島の別のユースの雑記帳に「プー太郎になりたい」というようなことを書いたっていう。

 

―せっかく拾ってもらったのに。

 

伊東

だめだよね(笑)。

 

―だめですよ。でも一応はきちんと入社したんですね?

 

伊東

はい。入社して配属されたのが、VIPの渡航手配などをするセクションだったんです。おもしろかったですよ、ちょっと言えないような話がたくさんで(笑)。ただ特殊な仕事だったので、代わりの人がいなくて。その結果、1年目に3日間休みを取ってから一切休みが取れなくなったわけです。学生時代さんざん旅をしてきた人間がほとんど旅に行けなくなって精神的にかなり追い詰められました。そんな感じで5年半経ったころにヘッドハンティングされたんです。

 

―おお。

 

伊東

仕事でシステムを触っているうちに得意になってしまって、IT関連の会社にハントされたんです。正直旅行会社はお給料が非常に低かったこともあり…その仕事に飛びついちゃったんです。

 

―休みもなかったし…。

 

伊東

最後の日も夜11:30くらいまで働いて、会社に鍵をかけて帰った(笑)。それで翌朝8:30に新しい会社に出勤。今度は日本全国出張しまくって、ほとんど東京にいないような生活。また全然休みが取れない状態が続いていたんですが、2000年の8月、お盆に1週間休みが取れたんです。でも夏休みが9年ぶりなんで、どうしていいかわからない。勘が鈍っちゃってて。それでとりあえず羽田に行こう、と。

 

―行き先を決めずに。

 

伊東

はい。羽田に行って、行き先表示板を見ていたら「稚内」っていう文字があって空席ありになってたんです。

 

―そしてすぐに礼文島に行ったんですね。

 

伊東

その日のうちに。ユースに行ったら、夕方にすごくきれいな夕日が落ちていったんです。それを見て、あーオレはやっぱり北海道で暮らそうって。決意したのはそのときです。そして宿をやろうって。なぜそこで宿が浮かんだのかわからないけど、もしかするとずーっと宿をやりたいって思っていたのかもしれないな。

 

宿運営のベースを学んだ

とほ宿でのヘルパー時代

 

伊東

お盆休みが明けてすぐに上司に辞表を出して、交渉の結果、年内一杯で退職することに。ただ宿をはじめると言ってもなんの当てもないので、1年間ヘルパーをやろうと思っていたんです。

 

―人生を変えた礼文島のユースでのヘルパーは考えなかったんですか?

 

伊東

体力的にも難しかったし、夏しか営業していないので除外していました。それで久しぶりに「とほ」の本を見ていたら、偶然「さろまにあん」のページが目に入った。

 

―ぱらっと開けたらそのページだったとか?

 

伊東

いや、予算の問題(笑)。ヘルパーに関係なく、単に宿泊先として旅の1日の予算内におさまるなって。1月の10日ころだったかな。それから数日間泊まって、ただひたすら飲んでたんですよ。宿主といろいろ話しているうちに、実はヘルパーをやりたいんだという話をしたら、うちでいいよって。後で聞いたらヘルパーを募集していて、飛んで火に入る夏の虫だったらしい(笑)。

 

―オーナーが先代の時代ですね。

 

伊東

ヘルパーになった時点で、完全に宿開業のための修業という感じでした。そこで悪い親父にひっかかってしまったわけですよ(笑)。自分が宿をやりたいって言ったからなんだけど、宿主にはすべてやらされたもんね。いや、やらせてくれたと言うべきかな。

 

―そうですよ!

 

伊東

でも親心からではないような気がするんだよね…。宿主はお客さんと遊ぶのが仕事だったし(笑)。そのうち食事まで「あなたの好きなようにつくりなさい」っていうことになっていって会計までやってましたからね。ヘルパー一年で、ほぼすべてやらされた。でもそれがいまの宿のベースにもなってる。食品衛生についてもたたきこまれたし。いい勉強になりました。

 

ヘルパーをしていたときのさろまにあん新年会にて

 

―会社に辞表を出してから実際に辞めるまで4か月以上あったようですが、そのことを後悔する瞬間はなかったんですか?

 

伊東

とにかく一刻も早く北海道に行きたかった。「こんなところはオレのいるところではない」ぐらいまで思い詰めてたから。よくあそこまで思い込めたなって自分でも思うよね(笑)。なんだったんだろう、あの熱量みたいなのは。後でさろまにあんの先代と話したときに「宿を開くってそんなもんだよ」って言われた。突っ走った人が宿をやってる。

 

―いろいろ考えちゃだめなんですね。

 

伊東

お金が…とか考え出したらまぁ無理だねって。

 

―お金のことは考えなかったんですか?

 

伊東

当時はほぼ文無し(笑)。転職して金まわりがよくなったはずなのに…。全部お酒に消えちゃってた。

 

―ヘルパーになったときはすでに30代ですよね?

 

伊東

34歳になる年ですね。

 

―33歳で普通の転職ならともかく、ヘルパーにっていうのはなかなかいないですよね。

 

伊東

なんでそんな楽しそうなのっていうのはよく言われた。でもほんっとうに楽しかった。お客さんと話してても。ヘルパーってやったことのない人にはわからない楽しさがあるんですよね。

 

―寝る場所と食事は提供されますが、お給料はないところが多いですよね。このときもお給料の出ないヘルパーだったんですよね?

 

伊東

そうです。でもお金をもらわないからこその楽しさがあるのかもしれない。はっきり言って、お金をもらってやったらただの激務じゃないですか。朝早くから夜遅くまで働いて。

 

―なるほど。

 

伊東

特に僕の場合は、宿を開業したいって言ってヘルパーをしに来ているので仕事も本気でやるしね。楽しくてやってたから1日も休みがなくてもよかった。宿側からすれば便利な存在だったんでしょうね(笑)。

 

妻の恵子さんとはさろまにあんでのヘルパー仲間。恵子さんは当初、夏から雪が降る前までの予定だったが、結局3月までヘルパーを続け、伊東さんと札幌へ。その後思い出の地、佐呂間町で婚姻届を提出

 

―そのまま、さろまにあんに居続けるっていう考えはなかったんですか?

 

伊東

1月に宿が20周年を迎えて記念パーティーをすることになったんですが、その前日の夜、ちょっと話があるってヘルパー3人が呼ばれたんです。そこで「宿を引き継いで私は引退します」って。

 

―20周年のタイミングで!

 

伊東

「前川さんに引き継ぐから」って。

 

―現オーナーですね。

 

伊東

宿主はいろんな人に「この宿買わない?」って言っていたんで冗談だと思っていたら…。それで「どう思いますか」って聞いてくるんですよ。

 

―あはは。

 

伊東

「あなたには引退を反対されるかと思いましたよ」って言われたけど、反対もなにも、もう決めてんじゃん(笑)! ほんとに最後までとんでもない宿主だったけど、楽しく過ごすっていうことをたたきこんでくれたのはあの人だね。

 

―どうたたきこまれたんですか? 

 

伊東

まずおまえが楽しめって言われました。おまえが楽しくなかったらお客さんも絶対に楽しくないから。お客さんに気を配りながら、常におまえが先頭を切って楽しむように考えろ。おまえがホントに楽しくなればみんなが楽しくなるって。

 

―確かに。宿の運営に限らずに言えることかもしれませんね。

 

利尻山の偉容に打たれ抜海へ

宿が建つまでは苦労の連続

 

―ヘルパーのお仕事が無事終了して、いよいよ宿開業ですか?

 

伊東

宿の場所は稚内市の抜海(ばっかい)って決めていたんです。

 

―なんで抜海だったんですか?

 

伊東

大学3年のときの北海道旅行は鉄道で来たんですが、ここを通過したときにいきなり見えたんですよ、利尻山がどかーんと。「ただいま列車は抜海駅を定刻に通過して南稚内駅にまもなく入線しますが、いま利尻山がすごくきれいに見えています」って車内アナウンスが流れて、列車が停車。当時はJRもすごくいい雰囲気でそういうことが許された時代でした。

 

初めての北海道旅行で見た利尻山。宗谷本線で稚内に向かうと、抜海駅を過ぎて初めて海側に視界が開ける。そのときに目に飛び込んできたのがこの景色だった

 

―そういう余裕、いいですね。

 

伊東

そのとき初めて「抜海」っていう単語に会ったんです。それから何十回とここに来ましたが、いつも利尻山がばっちり見えていたんです。だからいつでも見えているんだと思っていたけど、住んでみたらとんでもなかった。

 

―実際住んでみての確率はどうなんですか?

 

伊東

利尻山が見えるのは年間の3分の1。冬なんてほぼ見えない。

 

―旅のときは冬にも来ても…。

 

伊東

なぜか見えたんですよ、毎回。こんな景色をみんなに見せられたらいいなって。それがここで宿をやりたいという出発点なんですよね。

 

―本当に縁としか言いようがないですね。それで開業の地は決まっていたわけですね。

 

伊東

でも、すぐに宿なんかできないからとりあえず仕事をするために札幌へ。その後、旅行会社の稚内駐在の仕事が見つかったんです。稚内・利尻島・礼文島専門の添乗員。それと同時に抜海での土地探しがはじめたんです。

 

―すごい勢いで動き出しましたね。

 

伊東

抜海の土地探しは絶望的に大変でした。

 

―どういう面でですか?

 

伊東

まず売る気、貸す気がない。しかも所有者がどこにいるかわからない。

 

―土地はあるのに…。

 

伊東

半年くらい過ぎた3月ころになって貸すならいいよって言ってくれる人が現れたんです。ようやく進み出したかなと思ったら、今度は金の段取りがやっかいなことに。地元信金でお金を借りようとしたら、稚内市内で保証人をつけろって言われて。そんなのいるわけないじゃないですか。それで話はなかったことに。絶望的な気分でしたよ。

 

―知り合いのいない土地でお金を借りるというのは本当に大変ですね。

 

伊東

でもこの話を添乗の仕事でお世話になっていた地元の人にしたら、その銀行に自分の友達がいるからって僕の目の前で電話してくれたんです。なんとか通せないのかってすごい剣幕で。そうしたら、銀行からの融資は無理だけど、国民生活金融公庫はどうですか?っていう話になって。そこで初めてその制度を知って、すぐに説明会に申し込みました。制限時間30分のところ1時間しゃべりまくったんですよ。こうしてこうするからお客さんが来て絶対に借金は返せますって。

 

―その機会を逃したら次はないですからね。

 

伊東

1か月後、礼文島のスコトン岬でお客さんを案内しているときに公庫の人から電話がきて「融資の件OKです」って。もう涙どばーっですよね。で、すぐに建設会社に電話して、融資がOKだったので進めてくださいって。

 

―すでに建物の建設も進めていたんですか!

 

伊東

建設会社とは融資が通ったらすぐに作業をはじめるってことになっていたんです。逆に言うと、すぐにやらないと間に合わないからって。

 

特に大事につくってほしいとお願いしたという談話室。伊東さん夫婦の手入れもあり、15年経ったいまもぴかぴか

 

―何に間に合わせようとしていたんですか?

 

伊東

9月28日の開業。9月10日過ぎには引き渡してほしいって言ってあったんです。でも、その話をしたのが6月なんでかなり無謀でしたね。本当に間に合うのかなと思っていたら間に合っちゃいました。後で聞いたら、資材はすべて発注済みだったって。

 

―素晴らしい! 

 

伊東

融資がOKじゃなかったらどうするつもりだったんだろう(笑)。こういうことでも「人は人を旅する」っていう言葉がずっしりきますよね。公庫を知ったのも縁だなと思いますし。

 

ーそもそもどうして9月末だったんですか? もう1年先延ばしにしてもよかったのでは?

 

伊東

とにかく自分の精神状態が持たないなと思っていたんです。それくらいつらかったですね、土地が決まるまでとお金の問題が解決するまでの数か月間は。

 

ーひやひやするようなことの連続でしたが、夢がかなってから15年ですね。利尻にひかれてやってきたこの場所で開業してよかったと思ってますか?

 

伊東

思ってなかったらとっくに逃げてます(笑)。楽しい…というか、お客さんがいろんな話を持ってきてくれるので、お客さんを通して旅をしているような感覚ですね。

 

2018.12.11
文・市村雅代

 

 

利尻の見える小さなお宿 ばっかす

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