「”お祭り”っていうのは自分で
やって楽しむものと気がついた」
旅人の宿 三輪舎
大場慶輔さん | 東京都出身。中学受験をして中高一貫の男子校に入学。中学のときはテニス部、高校のときはキャンバスを担いで校庭を走るような「体育会系」美術部で、厳しい先輩からいろいろな面でしごかれた。2008年宿開業。趣味は宿の床磨き。あだなは名前の一部を切り取って「おばけ」「ばけ」。 |
---|
中学時代に泊まったユースホステルでその独特の宿の世界にはまり、長野県のとほ宿「こっつぁんち」などでヘルパーを経験。八ヶ岳東麓での宿開業を夢見るようになる。長距離トラックの運転手や超ハードな飲食業界などを経て長野県佐久市に移り住み、6年目に夢を叶えた。浅間山の美しい眺めと八ヶ岳水系のおいしいお水に恵まれた宿。
中学時代にユースデビュー
宿開業を思い描くように
―「三輪舎」に行くんですっていう話をこっつぁん(「こっつぁんち」(長野県)の古藤均さん)にしたら「おばけやしき」だなって言われましたよ。すごくきれいな宿なのになんで?と思ったら、大場さんのお名前が「お“おばけ”いすけだから」って。
大場
宿をはじめるときも、みんなに言われたんですよ、名前は「お化け屋敷」で決まりだよねって。
―名前の一部を使っていることもあるし、ちょっとはその名前に心動いたんですか?
大場
ないない(笑)! 当初、名前はひらがなで「やど」に校舎の舎で「やど舎」にしたかったんです。でも妻が絶対やだって。「そんな名前つけてごらん、私は絶対電話に出ないよ」って
―「はい、やどやです!」って(笑)。
大場
宿のメールアドレスには「yadoya」を入れましたけどね。ライダーにも来てほしいから「二輪舎」っていう案もあった。でも二輪舎(車)だと、自転車操業が目に浮かぶよねってことになって。
―いま言われるまで思いませんでしたよ!
大場
人の力がほしいから「人力舎」にしようかとも話していたんだけど、お笑いの芸能事務所にあるでしょ? それで「三輪舎」はどうかって。人に聞かれたら「家族3人で前に進んでいかないといけないし」って言えるし。とりあえず三輪舎(車)だったら、二輪車と違って、前に進んでいなくても倒れはしないだろうって。とにかく「舎」の字は使いたかった。1字だと「粗末なおうち」とか「掘っ立て小屋」っていう意味と「何かがたくさん集まってるところ」という意味もある。牛1頭だったら牛小屋だけど、何頭もいれば牛舎になる。
―おぉ。
大場
そういう感じで人がたくさん集まるところ。…ちょっと名前負けしてますけどね。「三輪小屋」にした方がよかったかな(笑)。
―(笑)。そもそも宿をはじめるにいたったお話を伺いたいのですが、こっつぁんちでヘルパーをしていたことがあるんですよね? 旅はもともとお好きだったんですか?
由香
この人は小学生のときから、ユースホステルの会員ですよ。
―ご両親と行っていたんですか?
大場
家族旅行は別です。小学校のときは会員になっただけですけどね。
―えー! 小学生でも会員になれるんですね。
大場
プラン自体は潰れたんですけど、小6の時に友達と2人で九州まで寝台特急で行こうという計画を立てまして。行きは東京から大分を経由して西鹿児島まで24時間くらいで行く寝台特急富士に乗って、次の日は西鹿児島から熊本を通る寝台特急はやぶさで東京に戻って来る予定でした。
由香
「ちょい鉄」だから、この人。
大場
でも泊まるところどうする?って。時刻表の裏には東横インとかの広告があったんだけど、小学生2人じゃ絶対あやしまれるよって。そうしたら友達が、この世にはユースホステルというものがあるらしい、と言い出してすぐに会員になったんです。
ーすごい行動力!
大場
予約できますか?って往復はがきに日時を書いて送ったら、イラスト入りで「お待ちしています。気をつけていらしてください」って返事が来て。もう、ウキウキですよね。あとは切符を買って列車に乗るだけっていう。そうしたら、父母会でこの話が問題になったみたいで。子どもだけで行かせてはいけないってことになってやめさせられて3日間泣き明かしたっていう。
―それは泣きますね。
大場
中3のころになると今度は友達と2人で自転車でうろつきだしたんです。それで初めて相模湖のユースに行ったんです。秋だったんで部活のトレーナーを着ていたんですが、食事時になってご飯をよそってもらいに行ったら、そこにいたサブペアレント(宿のスタッフ)が僕のトレーナーをじーっと見て「おまえ、オレの後輩か?」って。それがケチのつきはじめ(笑)。
―(笑)。
大場
そのころは夜のミーティングもすごかったんですよ。それでハマっちゃった。どこのユースも踊り狂っているような時代で、逆に落ち着いた雰囲気のところは「あそこ静かなんだって」って話題になっちゃうくらいでした。
ーあちこちのユースを渡り歩いたんですか?
大場
自分は「居付き派」なんです。相模湖のユースの次にはまったのは、おもしろいユースがあるっていう評判を聞きつけて行ってみた清里のユース。ここに行ったのが運の尽き(笑)。その清里のユースの勢いをつくった人がやってる宿があるって言われて、こっつぁんちへ。野辺山の春も夏も秋も冬も見てみたい、ということで通っちゃった。
ーじゃあ宿はもちろん、その地域にも魅力を感じていたんですね。
大場
22歳くらいのときに友達と富良野に行って「きれいな景色だな~。野辺山みたい」って言ったら、友達に怒られました(笑)。
ーあはは。ヘルパーもされていたんですよね?
大場
一番多く行ったのはこっつぁんち。トップシーズンは2回かな。GWが1回か2回。遊びに行ったはずなのになぜか手伝っているっていうのはいっぱい(笑)。助けているというよりも迷惑をかけているほうが多かったけど。反省会と称してのヘルパー同士の飲み会で、物置にあったこっつぁんのビールをこっそり持ってきて全部飲んじゃったり、お風呂のお湯を3日連続で垂れ流したり。
―それはこっつぁんの懐が痛い。
大場
4日目はお客さんが気づいてくれた(笑)。でも、そこら辺で気がついていたんです。お祭りっていうのは行って楽しむのではなく、やって楽しむものなんだって。
―お客として行くのではなく自分が宿側の人間になったほうがおもしろい、と。
大場
バカなことは、見るんじゃなくて自分でやったほうがいいって。そうしたら人生が祭りになっちゃった(笑)。
八ヶ岳東麓で働くため結婚
転職を繰り返す中、転機の35歳に
―浪人時代があったようですが、その後大学には…?
大場
1年は通いました。
―1年で退学したんですか?
大場
はっきり言えば家庭の事情。翌年別の関西の大学の2部を受けなおしました。学費が安かったんですよ。いくらだと思いますか? 1年間で12万円ですよ。月割り1万円。みんなからは寺子屋って言われてました。
―あはは。
大場
でもそこも中退。2つの大学に入れたけど、2つとも中退していると。
由香
そもそも2度目の大学は「まちがって」入っちゃったんでしょ。
―どういうことですか?
由香
彼は史学科に入りたかったのに、試験のときにマークシートでまちがえて哲学科の欄を塗って、それで合格しちゃった。なのに史学科に顔を出し続けて4年次中退。中退論文も出したらしいですよ。
―でも好きな勉強をそこまでしたっていうのはすごいです。というか、由香さんはよくご存知みたいですが、いつからの知り合いなんですか?
大場
高校卒業するころからかな? 由香の友達に清里のユースで逆ナンされたことがきっかけ(笑)。その人は旅の冊子を出しているサークルのメンバーで、その集まりで「昔からのお友達なの」って紹介されたのが由香。それからしばらくは「お友達」。私の過去の7、8割は知っています。
―関西の大学を中退した後はお勤めですか?
大場
契約社員として、東京の飲食店に勤めていました。その契約が切れて仕事を探していたときに、清里(山梨県北杜市)で住居付きの仕事があるという話を聞いて電話してみたんですよ。そうしたら、夫婦じゃなきゃだめだって。そのころようやく由香とは「お友達」ではなくなっていたんです。だから結婚するかもしれないので2人でどうか、と先方に話をしたら、「婚約をしていないと難しい」って。だから、「由香、結婚したら清里で暮らせるぜ。仕事はあるぞ」って。それで結婚したんです。
―すごいきっかけでしたね。じゃあ新婚生活は清里ではじまったんですね。
大場
2年近く清里に住んでいたんだけど、ちょっと体調を崩して。前にいた飲食店から手伝ってほしいと言われたこともあり東京に舞い戻りました。その後、一度やってみたかった長距離トラックの運転手に。由香に土下座してお願いして(笑)。
ーどうして長距離トラックに興味を持つようになったんですか?
大場
どうしてですかね。ともかく、遠くへ連れて行ってくれそうな物が好きなんです。時刻表に「夜行」とか「寝台」って書いてあるとワクワクしますね。
ーその気持ちなんかわかります。
大場
長距離トラックの運転手になってからは、関東から九州を走るようになって、週に2、3回しか泊まりに来ない男になりました(笑)。そのうち子どもができて安定した仕事に就こうということになって、ファミレスの世界に足を踏み入れてしまったんです。
―すごい振り幅ですね。
大場
そこがスーパーブラック企業。何人スタッフがいようが、店舗に社員はひとりっていう。バイトの手配に失敗すると全部自分が被らないといけない。
―おそろしい世界ですね。
由香
朝8時に出て、午前2時ころに帰って来てましたよ。
大場
2時は早い時ね。
由香
玄関で靴を履いたまま寝てたり。
―うわー。
大場
そのうちだんだんこっつぁんに怒られるようになった。おまえは何をやっているんだ。一体いつになったら宿をはじめるんだと。こっつぁんは35歳のときこっつぁんちをオープンしている。ほかにも35でオーナーになった人がいて。オレもことし35歳だから動かないといけないのかな、って。そんなことを考えているときに、関西に異動になりそうになったんで突発的に仕事を辞めてしまいました。家に帰って、開口一番「ごめん、仕事辞めてきたから」って。借り上げ社宅だったのに(笑)。2週間で出なくちゃいけなかった。まだ子どもが幼稚園入る前くらいの年だったかな。
―由香さんはそのとき…。
由香
専業主婦。
―じゃあ急に仕事を辞められると困りますよね。
由香
いつか辞めるだろうと思っていたので、「あ~いまきたか」という感じでしたね。
―そこは読んでいたわけですね。こっつぁんに、早く宿をやれよって言われていたのは知っていたんですか?
由香
一緒に呼び出されましたから。宿をやってみてだめならまた会社勤めをすればいい。とにかく一回やればって思ってました。
―じゃあ次の仕事は宿、と考えていたんですか?
由香
宿はすぐにはできないけれど八ヶ岳の東麓に行きたいのはわかっていたから、とりあえずそのあたりで家を探してこい、とお金を渡して送り出しました(笑)。
移住から6年
浅間山を望む絶景地に開業
大場
野辺山周辺に土地探しでちょくちょく行けて、かつ当座の仕事がありそうな場所っていうと甲府、韮崎、諏訪、佐久だったんです。寒すぎる所を避けたりした結果、佐久に住むことにしたんですが、ヘルパー時代に宿をやりたいという話をしたら、こっつぁんから「佐久はどうだ?」って言われたことがあったんです。交通の要所はいいぞ、って。そういうのもちょっと頭にはあったんですよ。
ーそうだったんですね。
大場
佐久に住んで派遣社員として働きながら野辺山で土地を探しているうちに、そうだ、佐久でいいじゃん、って思いはじめて。改めて場所を探しだしたんです。…でもろくな土地がなくて。崖の上か崖の下。もしくは、もろに崖。
―あはは。崖が多いんですかね。
大場
いや、安い土地ってそういうところしかないんです(笑)。あちこち見ていたときに、ここのすぐ近くの土地も紹介されたんです。それで見に来たけど、いまいちで。帰ろうとしたら、うちの息子が「おとう、あそこに『売り地』って書いてあるよ」って。息子には「売り地」っていう言葉を見たら、オレを呼べって言ってあったんです。それがここ。
―息子さん、いい仕事しましたね。
大場
不動産会社に行ったら、540坪をまとめて買ってくれるならって提示されたのがすごく安い金額だったんですよ。どれくらいの価格かって言うと、後日地元の知り合いに金額を言ったら「オレだったら3倍で買うよ」って言われたくらい。ただし農業振興地域だったので、宅地にできるよう振興地域からはずれたら買いますって言って、それから2年弱待ってました。で、いよいよ土地が自分のものになると、それを担保に銀行からお金を借りられるようになるわけです。
―なるほど。
大場
最初は計画書を持ってこの辺の銀行を全部まわろうと思ったんです。でも、待てよと。全部まわって全部断られたら、アウトだなと。それで、まず1行に相談してだめだったら、改訂版を作っていく方法にしたんですよ。それでもなかなか融資が下りなくて。
―みなさんおっしゃいますけど、融資を受けるのは大変ですよね。
大場
いよいよ最後の銀行になっちゃった。そうしたら「宿と銀行の場所が少し離れてますけどどうしてうちにいらしたんですか?」って聞かれちゃって。実はその前に司法書士さんの相談会に行っていたので、「△△先生にあそこは話が早いから行ってみたらどうかって、お勧めいただいたんです」ってそのとき聞いた話と担当になった司法書士の先生の名前を出してみた。実は名刺をもらえなくて、名札の名前を覚えていただけなんですけど(笑)。そうしたら数日後に、前向きに検討してみますっていう返事がきて。地元のつながり恐るべし。もしあの銀行がだめだったら、その直後にきたリーマンショックのあおりをもろに受けて、派遣村に行ってましたね。家族そろって。
―じゃあ無事融資が下りて、上物が建つことになったんですね。
大場
佐久に来てから建つまでに6年くらいかかってますね。この土地にした一番の決め手は浅間山の眺めですよ。この眺めでお金を取れるなって(笑)。
ー確かに!
大場
この景色をお風呂に入りながら見るために、唯一の贅沢として、2階にお風呂をつくったんです。それなのに完成してみたら、窓枠の位置が高くて、湯船につかった状態では浅間山が見えなかった。それで結局工事がやり直しに。おかげで、営業許可が下りるのが遅くなって、その年の「とほ」の掲載に間に合わないっていう事態になっちゃったけど…(笑)。
―でも、これは工事のやり直しをしたかいがありましたよ。
大場
やっと建った!って夏から営業をはじめてみたら、結構お客さん来てくれたんです。なんとかなるんじゃない?って思っていたら秋に100年に一度の大恐慌(2008年のリーマン・ショック)。聞いてないよーって。例えて言うなら、「ご家族の方をお呼びください」みたいな、宿が瀕死の状態になりながらも乗り越えてきて。なんとかなるかもしれないって思っていたら1000年に一度の大震災(2011年の東日本大震災)ですって。
―そうですよね。
大場
もう「何年に一度」が来ても怖くない(笑)。人生の崖っぷちの魔術師って呼ばれてますから!
ーそんな事態にならないことを祈ってます(笑)。
2018.11.27
文・市村雅代