コンセプトは「五感で楽しむ旅」
ゲストハウス BB LODGE(ビービーロッジ)
松島由依さん | 大阪府出身。高校卒業後、アパレル業界に就職。約6年半後に退職した後は、自転車で日本縦断、ニュージーランドでネイチャーガイドの経験などを経て、香川県まんのう町に家族で移住し、住居兼ゲストハウスを新築。2024年に開宿。宿名の由来は、ネイチャーガイド時代にチームで住んでいた家の通称から。 |
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松島さんは、北海道のとほ宿「さろまにあん」での冬の流氷ツアーなどに参加した経験から、宿主催のツアーの楽しさを知った。いつかは自分もそういうツアーを主催したい、という想いが発端となり、お客さんに泊まってもらった方が遊びの幅が広がるから宿をやりたい、という目標へとつながった。ワーキングホリデーで訪れたニュージーランドでネイチャーガイドをやってみたいと思ったのも、ツアーを主催する経験値を上げるためだった。ゲストハウスに泊まったことがない人にも、こういうスタイルの宿があるんだ、と知ってもらって、人がいっぱい来てくれる場所になってくれたら、と願う。
濃すぎる高校時代
―松島さんの出身地はどちらですか?
松島さん
大阪の京橋出身です。飲み屋しかないような街ですね。立ち飲み屋街です(笑)。
―小学生や中学生の頃はどのように過ごしていましたか?
松島さん
中学生の時は女子バスケ部だったんです。やってみたいなぁ、と思ってバスケ部に入ったんですけど、身長がみんな低くて弱小バスケ部でした。私の身長が158cmくらいなのにセンターだったんです。細い割にリバウンドは強かったんですけど、シュートが全然入らなくて。ゴール下が弱いタイプでした(笑)。
覚えているのはそれぐらいですね。
高校からが濃すぎてなのか、中学生よりも前の記憶ってあんまりないんです。
―高校はどのように選びましたか?
松島さん
中学校での成績はそんなに悪くなくて、先生からは、
「校区の中で、偏差値が上から3番目くらいのところに行けるよ」
と言われていたんですけど、高校を選ぶ際、まず電車通学に憧れましたね。ICOCA(JR西日本の交通系ICカード)が出始めた時期で、駅の改札でそれをかざすとピッと音が鳴って通り抜けられるから、私もピッとやって高校に通いたくて(笑)。それと私服でもいい高校に憧れたので、そうなると偏差値が真ん中かそれより下くらいの学校が私の中で完全に当てはまったんです。
―高校に入学して、楽しかった思い出はありますか?
松島さん
高校生になると行動範囲が広がるじゃないですか。古着屋さんがいっぱいある大阪のアメリカ村という場所があって、楽しくて何回も通いましたね。古着が好きっていうよりは、既製品の服に着たいと思うものがないから、自分で袖を切ってリメイクしていたんですけど、高2くらいでアメリカ村に行った時にめちゃめちゃかわいい店を見つけたんです。
―どのようなお店でしたか?
松島さん
そこの服は古着ではなくて、カラフルで派手で手作り感があって、値段がちょっと高かったんですけど、もう一目ぼれです。
ひときわ派手な店員さんから話を聞くことができたんですが、その店では売り場に立っている店員さんが服をデザインしているんです。デザインした後、服を製造する工程は海外のメーカーに依頼するので、服飾の専門学校で勉強するような知識はなくても大丈夫という話も聞いて、私もここで働きたいな、と思ったんですよ。
―そのまま就職へとつながっていったのですか?
松島さん
高校3年の秋くらいからバイトとして入って土日に働いて、高校卒業したらそこに就職しようと思って面接を受けたんです。
面接の担当者から、
「当社に入社を希望していることについて、ご両親はどのように話していますか?」
と質問されて、
「別に『好きにしたら』っていう感じでした」
と答えたら、
「それはおかしい。18年間大事に育ててきた娘が就職するのに、そんな言葉で終わらせる親はいません。それは、ちゃんと話せていないんじゃないですか?」
と言われたんです。確かにちゃんと話していなくて、
「うちは接客業だし、お客さんとコミュニケーションをとるのが仕事だから、一番身近な家族とコミュニケーションとれない人がお客さんとコミュニケーションとれるわけがありません」
その言葉にすごい衝撃を受けて、本当にそうだな、と。
「親とちゃんと話をして、もう1回電話させてもらっていいですか?」
と話したら、面接の担当者も納得してくれた感じでした。
―ご両親とはどのような話をしましたか?
松島さん
私、小学校の高学年くらいから高校3年生まで、ずっと反抗期だったんです。親と毎日けんかしていました。だから、進路の話なんかも勝手に決めて、親に対しては、
「この会社の面接を受けて働くから」
という感じで言っていたんです。
面接を終えて家に帰ったその日に両親に謝りました。泣きながら。親が嫌いで反抗していたというよりは、意地みたいな感じだったんです。今更素直になれないと思っていた部分もあって親にきつく当たってしまって、そういうことを、
「ごめんなさい」
と謝ったんです。そこから親とすごい仲良くなりましたね。それがなかったら、今親と一緒に住んでいなかったと思うんです。面接担当者は当時部長で、その後社長になったんですけど、親と仲良くなれたのはその人のお陰です。
やりがいを感じて、「一生このお店で働きたい」
―お仕事は楽しかったですか?
松島さん
自分が着たい服を自分で考えて形にして、その服の良さをお客さんに伝えて買ってくれたら嬉しいし、お客さんがそれを着て次回お店に来てくれた時には泣いちゃうくらいだったから、やりがいがめちゃくちゃありましたね。
でも、自分がデザインした服って自分が欲しくなっちゃうんですよ。それで、自分の給料の半分以上は服に使っていました(笑)。好き過ぎて(笑)。
海外出張も行かせてもらいましたね。メーカーさんがインドネシアのバリとかインドにあるので、月に1回10人くらいで現地に行って直接メーカーさんと打ち合わせして注文するんです。5日間は打ち合わせ、1日は買い付け、1日はオフで会社が補助金出してダイビングのライセンスを取らせてくれたこともあったんですよ。
―夢のような、いい会社じゃないですか!
松島さん
一生このお店で働きたい、と思っていたんですけど、海外に行くと異文化に触れるじゃないですか。元々服が好きだし、世界の民族衣装を見て回りたいな、と思って世界一周願望がふわっと湧いてきたんです。
―人生の転換点が来ましたね。
松島さん
18歳で入社して21歳で店長になったんですけど、小さい店だったのでアルバイトの子と二人三脚でやっていたんです。でも、アルバイトだからその子がいない時は一人でお店をやっていました。タグ作り、ポップ作り、商品企画も大変でしたが、何よりお客さんがお店に入ってきて接客している時に、次のお客さんが入ってきても一人だと対応できないことが辛かったんです。次のお客さんがうちのカバンを持っているとか、服をすごく買ってくれそうでも接客できないことでチャンスを何度も逃して、売り上げが伴わなくなっていって。。。結構落ち込んじゃったんですけど、好きで始めたことをしんどいから辞めるというのはしたくなかったし、一番楽しい時にもっとやりたいことがあるから辞めます、としたかったんです。だから踏ん張って、その後はお店の状況も変わってすごく楽しかったんですけど、3年後ぐらいにそれでも旅したい気持ちが消えなかったので、会社を辞めるのは今かな、と思いましたね。
世界一周を真剣に考えて調べている時に、私、日本のことを何にも知らないな、と思って、まずは日本を見て回ろう、と。自転車で。自転車が一番やりとげた感があるかな、と思ったんですよね。それを親友に相談したら、死ぬほどビックリされて(笑)。
―ご両親から反対されませんでしたか?
松島さん
母からは、
「もう、本当にやめなさい。絶対許さない!」
と言われたんですけど、私は誰に反対されても行こうと思っていたんです。でも、父が、
「そういうことは経験した人にしかわからないことがあるから、やってみたらいいんじゃないか」
と言ってくれたんです。すごいびっくりしましたね。普段から父は私に対して過保護で、家に帰る時間がちょっと遅くなったら、
「迎えにいく」
と言うくらいだったんです。その父が背中を押してくれたのは、気持ち的に大きかったです。でも、女の子なんで、
「自転車で旅に出ても一応野宿はしないということと、毎日連絡をするという約束だけは絶対守って」
と言われましたね。
―会社を退職後は、すぐ旅に出たんですか?
松島さん
1年間、昼と夜にバイトを掛け持ちして、お金を貯めてから旅に出る目標を立てましたね。お店で働いていると服を買っちゃうからお金を貯められなかったんです。昼は大阪城の周りを走っている観光船での仕事をして、夜は京橋のバーで働いて。
―夜のバイトで、何故バーで働こうと思ったのですか?
松島さん
人間って仕事している時間が長いじゃないですか。仕事が楽しかったら後のプライベートは楽しいに決まっているから、だから楽しそうな仕事をやろう、と。そのバーは行ったことがあって面白いバーだったし、午前5時までやっていたから夜の時間もしっかり働けると思ったんです。
―どんなバーですか?
松島さん
クレイジーなバーです(笑)。後から知ったんですけど、元関西一のテキーラの消費量のお店だったんですよ(笑)。記憶がなくなるお客さんなんて、しょっちゅうです。例えば、初めてそのお店に来たお客さんには、
「カンパーイ!」
とウェルカムテキーラをワンショット出すんです。それから、10席くらいあるカウンターが全部お客さんで埋まったら、
「満員御礼テキーラ!」
お客さんから、最近彼女ができた話を聞いたりすると、
「おめでとう! テキーラ!」
何かと理由を付けてテキーラを出すんですよ(笑)。
―テキーラのアルコール度数って何度ですか?
松島さん
40度です。スタッフも一緒に飲むんですけど、週末とかは毎週10杯はテキーラを飲んでいましたね。ライブバーでもあったので、2階でやっていたライブが終わると打ち上げでテキーラを飲んで、みんなテンションが高いんですよ。お店のオーナーが午前1時に、
「いこかー!」
と大声出してCHAGE and ASKAの「SAY YES」の曲をかけて、店にいた全員で大熱唱したことがあったんです。その時はお店の近所からクレームがあって警察が来たんですよ、うるさすぎて(笑)。「YAH YAH YAH」とかならうるさいのもわかるけど、「SAY YES」でクレームなんて(笑)。刺激的なバーでしたね。
旅は出会いの連続
―自転車旅の準備は進みましたか?
松島さん
ロードバイクを買って、1回だけ大阪から奈良まで1泊で行ったんですけど、練習はそれくらいで(笑)。自転車に積んだ荷物も1泊分だから楽だったし、今思えば本当に無謀だな、勢いってすごいな、と思いますね(笑)。結局1年半くらいお金を貯めて、6月に舞鶴港からフェリーに乗って北海道を目指しました。
―自転車で北海道を実際に走ってみて、どのようなことを感じましたか?
松島さん
フェリーが小樽港に着いて、最初は積丹半島に行こうと思ったら道を間違えて山道に入っちゃったんです。長期間旅するための荷物を積んでちゃんと走ったのがその時初めてで、それで最初の1週間はずっと筋肉痛でした(笑)。めっちゃ辛くて、練習と全然違う、と(笑)。
小樽から余市までの道はトンネルが多くて、その中をトラックが走っていると、トラックの走行音がトンネルの中でものすごく反響するから怖いんです。今日死ぬかも、って思いながら走っていましたね(笑)。
―北海道ではどのような宿に泊まりましたか?
松島さん
ライダーハウスとかユースホステルとかツーリングマップルに載っている民宿とか、値段が安い宿を探して泊まっていたんですけど、セイコーマートというコンビニでとほ宿の本を見つけて、
「何これ?」
宿が沢山載っているし、ごはんが美味しそうだし、すぐに買いました。その時は十勝にいたので、そこから一番近いとほ宿の「こもれび」に泊まったんです。
―とほ宿に泊まって、印象はどうでしたか?
松島さん
「こもれび」はごはんも美味しいし、同宿の人とおしゃべりして楽しいから積極的にとほ宿を使おう、と。
とほ宿の「さろまにあん」に泊まった時はサロマ湖100kmウルトラマラソンの3日前ぐらいだったんです。事前に宿泊しているマラソンのランナーさんが何人かいて100kmマラソンの話を聞いたら、めっちゃ面白そう、と思って。でも、明日からここはランナーさんの宿泊でいっぱいになるから泊まれないという話があったんですけど、オーナーの「しっぷ」さんが、
「マラソンを手伝うんだったら、ここにいてもいいよ」
と言ってくれたので、お手伝いをすることにしました。その後、当日のスケジュールの話になって、
「マラソンは朝5時スタートだから、ランナーさんを送迎するために宿を3時半に出発します。だから、ランナーさんの朝ご飯は2時に始まります。なので、朝ご飯の準備は0時から始めます」
ということで、0時からお手伝いに参加することになったんです。
―結構ハードですね。マラソンはどんな様子でしたか?
松島さん
お祭りみたいな感じで、宿の屋根に登って目の前の道を走るランナーさんにメガホンで、
「頑張れー!」
と応援して手を振って。宿がある場所はスタート地点から70kmくらいなんですよ。ランナーさんはここまで走ってきて体力的にしんどいじゃないですか。でも、みんな上を向いて手を振ってくれるんですよ。その上、
「ありがとー!」
ランナーさんがこっちに聞こえるくらい大きな声を出してくれるんです。それにめっちゃ感動して、私はボロボロと涙があふれてきて。。。いい経験をさせてもらいましたね。
その後しっぷさんが、
「冬、ここは面白いから宿のヘルパーしに、またおいで」
と言ってくれたので行きましたね。流氷ツアーが楽しかったです。
―北海道を出た後は、どのようなルートを走りましたか?
松島さん
青森からは日本海側を通り一旦大阪に戻って2週間くらい自宅で休憩しました。その後旅を再開したんですけど、徳島で財布を無くしたんですよ。どうしよう、と困ってしまって。。。とりあえずカード会社に連絡して利用を止めてもらってから父に連絡したら、
「交番に行って、事情を話してお金を借りることができないか、訊いてみなさい」
それで駐在所を見つけて入ったんですけど、誰もいなくて電話だけが置いてあったので電話して、
「すみません、財布を無くしたんですけど」
その後詳しい内容を話したら、
「受理番号何番で処理しますから」
と言われた後にガチャって電話を切られたんです。
「えぇー!」
お金を借りるどころじゃなくて、どうしよう、と困りましたね。その後父から電話がかかってきて、
「今日は仕事を早退した。今から迎えに行く。徳島まで3時間くらいかかるから」
父が大阪から迎えに来てくれて、クルマに乗せてもらって一旦自宅に帰ることができました。結局財布は見つからなくて、もう10月でしたから冬の間バイトしてお金を貯めて春にまた出発しよう、と。
春に徳島から再スタートして四国、瀬戸内、九州と渡り、鹿児島からフェリーに乗った後は沖縄を一周してゴールしたんですけど、海沿いのルートだけではなくて各地で内陸も走ったので、走行距離は約7500kmでしたね。
お菓子作りから新たな展開へ
―その後、海外には行きましたか?
松島さん
アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドに行ったんですけど、ニュージーランドはワーキングホリデーで1年半くらいの期間に渡って滞在しましたね。その時に、ゆくゆくは泊まれる遊び場を作りたい、と考えていたんです。
―将来の目標が見えてきた感じですね。
松島さん
さろまにあんでの流氷ツアーや他の宿でも登山ツアーに参加したんですけど、宿主さんがお客さんをどこかに連れて行ってくれるというのが印象的で、そういうことをしたいな、と思ったんです。お客さんに泊まってもらった方が遊びの幅が広がるから宿をやりたいな、と。それで、そういうツアーをやるためにネイチャーガイドをやってみたいと思っていたところ、ニュージーランドで日本人観光客向けの日本語ツアーのガイド募集があるって聞いたんですね。
運よく採用をもらったんですけど、半年くらいやった時にコロナ禍が始まってしまって。。。ニュージーランドの対応が早すぎて感染者が100人に達する前に、今から48時間後にロックダウンします、というアナウンスがあって、日本人がニュージーランドに来る見込みがないからトレッキングチームも解散ということに。。。
―次に働く場所とか住むところは見つかりましたか?
松島さん
ワイン作りに使うぶどうを収穫する仕事が見つかったのと、たまたまそこのワイナリーで働いていた人で日本人の子がコロナで一人帰国したので、その子が住んでいた一軒家のシェアハウスに住むことができたんです。
―シェアハウスでの暮らしは楽しかったですか?
松島さん
シェアハウスは3部屋あって、一緒に住んでいた大家さんが、
「毎週日曜日は一緒に晩ご飯を食べましょう」
と言ってくれて、そこに住んでいるメンバーで食べて楽しかったです。大家さんは料理とかお菓子作りが上手で、大家さんに、
「教えてください」
とお願いして、お菓子を作るようになりましたね。
―帰国後はどのような活動を始めたのですか?
松島さん
昔テキーラのバーで一緒に働いていた友達が家に遊びに来たので、ニュージーランドで作っていたクッキーを焼いたんですよ。友達がそれを食べて、
「めっちゃ美味しい!」
「売らなきゃもったいない!」
「うちでイベントしよう!」
と言ってくれたんです。その友達は当時カフェバーを経営していて、1日だけ間借りみたいな感じでイベントをさせてもらって結構面白かったし、この先マルシェとか間借りで出店して全国いろんなところに行ったらゲストハウスの拠点探しにもなるかな、と思ったんです。
―お菓子屋さんの誕生ですね。名前は何にしましたか?
松島さん
「旅する焼き菓子屋Bakepackers(ベイクパッカーズ)」です。ベイカー(菓子職人)とバックパッカーで、すぐに思いつきましたね。食品衛生責任者の資格を取って開業届も出して、スコーンとクッキーだけで始めたんですよ。あとは作りながらやってみよう、という感じです。私は研究体質なところがあって、料理とかもあんまりレシピ通りに作るのは好きじゃないし、こういうのを加えたらどうなるか、というように試すのが好きなんです。なので、ベイクパッカーズでは50日間毎日違う種類のお菓子を作り続けるという「50日間チャレンジ」を企画して始めてみました。夜11時に家に帰ってからお菓子を作っていましたね。
自分のイメージに合ったゲストハウスへ
―ゲストハウスの拠点探しは順調に進みましたか?
松島さん
大好きな北海道に移住して1人でこぢんまりと宿を始めたいなぁ、という人生プランだったんですが、両親が退職した後に私と一緒に移住することになったんです。最初は北海道で探したんですけど上手く話が進まなくて、
「北海道以外でも探してみよう」
と日本縦断した時にとても気に入った四国の瀬戸内側で探すことにして、約2年間かかって香川県まんのう町の土地に出会いましたね。
―ゲストハウス開宿に向けてどのように準備を進めましたか?
松島さん
オープンに向けての準備のため大阪から何度も香川へ通うのは効率も良くなく交通費もかかるので、まんのう町のお隣の綾川町という場所に引っ越して準備を進めていったんです。
―開宿準備で大変だったことは何ですか?
松島さん
お金を貯めたかったので、バイトを3つ掛け持ちしましたね。結構ツメツメで働いて、バイトが休みの日は業者さんと家造りの打ち合わせ、という感じです。自分が実現したい家のイメージはあるけど、それを人に伝えようとするにはそれに近い画像を探すのが一番手っ取り早いから、夜に布団の中に入ってから毎日3時間くらいインターネットネットで画像を探すこともしていたので、すごく楽しかったけど大変でしたね。
―ゲストハウスのオープンはいつでしたか?
松島さん
2024年4月6日がプレオープン初日でした。さろまにあんのしっぷさん、スタッフの「みほ」さん、そしてさろまにあんの常連の皆さんが来てくれて、初日から定員10名の満員御礼だったんですけど準備がいろいろ間に合わなくて、さらに10人分のご飯を作るのも生まれて初めてで、テンパりすぎて記憶がないんですよ(笑)。大師匠のしっぷさんにもたくさん助けてもらって、大先輩ヘルパーのみほさんもエプロンとバンダナを持参して手伝ってくれて本当に心強かったです。また、しっぷさんから開宿祝いにBB LODGEの旗をいただきました。めちゃくちゃ素敵で、この旗を振って旅人さんたちをお見送りしたいです。
そして、グランドオープンは4月29日でした。最初の日は大安がいいと思って決めたんですけど前日まで予約がなくて、0人でひっそりとオープンというのも1年目らしくていいかな、と思ったら、当日の朝にインスタグラムで「今日泊まれますか? 素泊まりで、カブで行きます」と連絡が来たんです。ゲストハウスをやりたいからその前に自分で各地を周っていろんなゲストハウスに泊まりたい、という日本一周中の女の子で、今栃木県で開宿準備をしているそうです。私が自転車で旅をしていた時と同じくらいの年齢で、やりたい宿のビジョンとかも似ていて、こんな子がグランドオープン初めてのお客さんなんて素敵なご縁に恵まれましたね。
―宿泊の予約は、その後どうでしたか?
松島さん
今まで出会ってきた旅人さん、友人、元の職場の人、宿主さんや旅人さんからの紹介などで、私が想定していた以上に多くの方がBB LODGEに来てくれました。
楽しい場所を作りたいと思ってゲストハウスを始めたけれど、最近思うのは私が何かをやるよりも来てくれた方たちがここを楽しい場所にしてくれている、そんな気がします。お見送りの時には皆さん、
「楽しかった!」
と言ってくれるけど、私ができることはそんなになくて皆さんが、楽しもう、という気持ちでここに来てくれているから、感謝しています。ありがとうの最上級の言葉って何だろう、と考えていますね。
―宿泊された方々で、印象に残る思い出はありますか?
松島さん
いろいろありますが、ライダーさん、遠方からのご家族2組、ご近所のお父さんとお母さんという組み合わせで泊まった時がありました。皆さん集まって夕食を食べたんですけど、ゲストハウスに慣れていないからちょっとモジモジした感じだったんです。その時はお盆の時期で花火を買っていたので夕食が終わった後に、
「花火しませんか?」
と皆さんにお声を掛けて花火が始まったら皆さんの距離がすごく縮まって、そのノリでそのまま飲み会になって盛り上がったんです。翌日、宿を出発する際のお見送りの時に私は誰かとしゃべっていたら、後ろの方でご家族連れ同士が、
「また来年もここで会えたらいいね」
と話をしているのが聞こえてきたんですよ。私にそんなことをお話してくれることはあっても、ご家族同士でそういうことを言っていたから、泣いちゃいましたね。嬉しかったです。
コロナで人との距離ができた期間を経て、やっぱり人との交流っていいな、って。こんな出会いが偶然に起こったというのが面白いし、その時その場所にいなければその人に出会っていなかったというところが、旅って面白いですね。
ポテンシャルが高いまんのう町
―BB LODGEの名前の由来は何ですか?
松島さん
BB LODGE というのは私がニュージーランドでネイチャーガイドとして働いていた時に私たちガイドチームが住んでいたおうちの通称で、現地ガイドとして本当に大切なことを学んだり経験させてもらった場所でした。ゲストハウスでもそのときの気持ちで皆さんをお迎えしたいな、とそんな思いからこの名前を付けたんです。他にも「B」というアルファベットにBackpackerやBikerなどいろんな旅人が集まるBaseになれたら、とか、これからみんなと一緒に楽しい宿をBuild upしていきたい、などの意味が込められていて、また「ビービーロッジ」という、言いやすくて覚えやすい語感がとても気に入っています。
―まんのう町ってどのようなところですか?
松島さん
パッと見は何もないんですけど、例えば冬だと去年の11月末から今年の1月中旬までやっていた国営讃岐まんのう公園のイルミネーションは規模がすごかったです。ゆっくり歩いたら1時間かかるぐらいの広い公園で全部イルミネーションがあって、ツアーもやっているんです。春にはチューリップとネモフィラが見頃になるし、四季折々でいろんなイベントがありますね。
夏だと大規模なひまわり畑が見ごたえあります。日本の行きたいひまわり畑ランキングというのがあるんですけど、1位が北海道の北竜町ひまわりの里、2位が山梨県の山中湖花の都公園、3位がまんのう町の中山ひまわり団地なんです。ひまわり団地は秋になるとコスモス畑に変身して、きれいですよ。
他にも、ホタルが飛んでいる公園もあるし、この町には素敵なカフェも多くて楽しいです。

この日の夕食メニューは、野菜たっぷり すりおろしハンバーグ、ひまわりぽんずのサラダ、まんのうひまわりオイルと粒マスタードのキャロットラペ、ほうれん草のナムル、父の畑のポテトサラダ、チンゲン菜とベーコンのクリームスープ、父のコシヒカリ、ご近所さんのパウンドケーキです。お米は後出しでお願いしたのでこの写真にはありませんが、どれも美味しくシアワセを感じました。
―まんのう町ってすごいですね。
松島さん
宿の近くの景色とかも、のどかでいいなと思っています。アメリカ、オーストラリア、北海道など、広い壮大な景色に感動してそういうところを追い求めていたんですけど、香川の風景って人の暮らしの中でできた里山とか、田んぼとか、ため池とか、それがこんなにきれいなのはすごい素敵だなと思っていて、ここに移住してよかったな、と思っています。
―今後の目標は?
松島さん
両親に日本一周の旅をプレゼントしたいです。両親は60歳で仕事を退職して、私に感化されたかどうかわからないんですけど、父が母と一緒にクルマに乗って、
「日本一周してみようかな」
なんて話をしていた時期があったんです。でも、結局退職が間近になってくると収入がなくなることや、宿をやるなら早くやったほうがいい、という感じもあって、両親も日本一周が先の話になって。。。今は宿のことでまだまだ大変だけど、両親に日本一周の旅をプレゼントしたいですね。
そして、30年間宿やります!
私はやりたいことが多すぎるんですよ。世界一周したいのも変わってないし、山もいっぱい登りたいし、余裕ができたらこんなことしたいな、というのがいっぱいありすぎなので、150歳まで生きなければ、という感じなんです(笑)。日本縦断した時に一筆書きの旅がもったいないなと思って、だから海外はスポットで分けているんです。アメリカやオーストラリアとか、滞在型の方が性に合っているなと思っているので、ヨーロッパ一周何ヶ月とかエリアで分けて、最終的にいっぱい周ったな、と思えたらいいですね。
2025.1.29
文・園田学
