ここをベースにして道東を回ってほしい
ゲストハウス 弟子屈ベース
土屋雅裕さん | 宮城県出身。高専(工業高等専門学校)時代に学校が認めたバイク通学がきっかけでバイクの世界を知る。 車も好きで、北海道をよく旅していた。56歳までサラリーマン生活を送り、その後開宿。宿名の由来は、バイクと車をいじるのも乗るのも好きなので所ジョージさんの「世田谷ベース」から採ったのと、ここを道東の観光拠点(ベース)にしてほしいという意味合いも込めて名付けた。 |
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土屋さんは高専を卒業後、IC作製と電気特性評価の研究職に就いた。その後転職し、会社を取り巻く環境が変化する中で、退職を決断。それまでは漠然と移住したい気持ちはあったが、宿を始めるつもりはなかった。しかし、今後の生き方を考えた結果、ゲストハウス経営の道を選ぶ。物件探しの中で、とほ宿のオーナーさんから連絡があり、この物件を購入した。2023年10月に開宿。宿から知床まで車で約3時間で行けるなど、道東の各地を見て回るには位置的に丁度良い場所。ここがお客さんにとって居心地のいい宿と感じてもらえたら、とオーナーは願う。
家を出たくて関東圏へ就職
―土屋さんは、どんなきっかけでバイクに乗ったのですか?
土屋さん
進学先の高専は自宅から遠くて電車の本数も少なかったんで、学校の規定でバイク通学が認められたんです。当時はバイクの免許を取らない、バイクに乗らない、バイクを買わないっていう三ない運動があったんで、バイク通学は珍しかったですね。
―その頃バイクに乗ってどんな思い出がありますか?
土屋さん
原付なんですけどバイク仲間ができて、一緒に日帰りでツーリングによく行きました。海の方だと牡鹿コバルトラインとか、山の方だと蔵王エコーラインとかを走りました。とにかく走るのが楽しくて、という感じでした。
―高専を卒業した後はどんな職に就こうと思いましたか?
土屋さん
高専では電子工学を学んだんですけど、就職先はどこでもよかったんです。あの頃は家を出たいと思っていました。でもどうせ行くなら関東圏がいいかな、と考えていました。そんな中、たまたまOBが学校訪問をしていて、その後食事に誘われた場で、
「じゃ、受けます」
と言って、その会社の入社試験を受けました。
―関東圏のどの辺りに行ったんですか?
土屋さん
埼玉県でした。石油精製と銅の精錬をやっている会社なんですけど、精錬くずの中に半導体の材料が含まれているということで、半導体に手を出した、という会社でした。
―職種としては何になりますか?
土屋さん
研究職です。クリーンルーム内での作業なので、無塵衣着て、マスクして、IC作製と電気特性評価の仕事をしていました。
―仕事はどんなところが大変でしたか?
土屋さん
とにかく製品に不純物やゴミが入るとダメなんです。素手では触れないし、つばとか飛んでもダメだし、汚染が進むとまともなものができなくなるんです。クリーンルームに入る何分前にはタバコを吸ってはいかん、というルールもありました。電気回路は0.5ミクロンのパターンなので、大きなゴミが入るとパターンがちゃんと作れなくなるんです。仕事は忙しくて、そんなに早く帰れる職場ではなかったですね。
―細心の注意が求められる仕事ですね。逆に楽しかったことはありましたか?
土屋さん
その部署の課長とか主任が面白くて、仕事が終わると、
「ちょっくら行きますか?」
と声を掛けられて呑みに行ったりしましたね。そういうことが普通にできる職場でした。会社を出た後のコミュニケーションが楽しかったですね。
―休日はどんな過ごし方をしていましたか?
土屋さん
バイクをいじってました。バイクのサービスマニュアルを見ながら、ばらしたり組み立てたりしていじるのが好きでした。組み立てたら部品が余ったりしたことはよくありましたね(笑)。グラム単位の軽量化、なんて言ったりしました。バイクに乗るのも好きだったんですけど、いじる方が好きだったかなぁ。
北海道を目指して、とほ宿の楽しさを知った
―旅はいつ頃から始めましたか?
土屋さん
会社に勤めて2、3年頃からですね。最初は北海道。あの頃はバイクで北海道に行くのがとにかくブームだったんですよ。8耐(鈴鹿8時間耐久ロードレース)見てから北を目指せ、という言葉に乗って北海道に行きました。
―初めての北海道はどんな印象でしたか?
土屋さん
あぁ、信号ないな、という印象でした(笑)。お盆休みに有休を2、3日付けたりして1週間のツーリングでした。その後のツーリングも北海道が多かったですね。北海道以外の場所にも行くには行くけれど、1回行ったらそれで終わり、という感じでした。
―北海道ではどんなところに泊まりましたか?
土屋さん
最初はキャンプ場でした。雨の日はライハ(ライダーハウス:主にバイクで旅するライダーのために自治体や地域の人たちなどが用意した簡易的な宿泊所)に泊まりましたね。軟弱キャンパーだったんです(笑)。
―当時、とほ宿はありましたか?
土屋さん
ありました。とほの冊子を見て、あぁ、こういう宿があるんだ、と思いました。泊まった印象は、こういう世界があるんだ、という感じでしたね。いろんな旅の情報が入るし、夜はお茶会といって宿のオーナーさんとか同宿のお客さんとコミュニケーションをとりました。
―キャンプ場では、他のキャンパーさんとのコミュニケーションがなかったのですか?
土屋さん
キャンプ場に泊まる時も近くのテントに自分と似たようなキャンパーさんがいたら声をかけて夜お酒を呑みましたけど、キャンプ場だと特定の層に限られるんです。でも、とほ宿に泊まるお客さんはホントにいろんな人がいて、車、バイク、自転車、徒歩、JR、という感じでした。それが楽しくて、その後もとほ宿に泊まりましたね。
―バイク以外の旅はしましたか?
土屋さん
車でも大分旅しました。オープンカーに乗っていて、それで北海道走ったら気持ちいいだろうな、と思いました。実際に北海道走ったら気持ちよかったですね。関東圏だと夏は暑すぎてオープンカーに乗れないんですよね。7月頃にこっち来てオープンカーに乗るとものすごく気持ちいいんです。その時から7月には北海道によく来ていましたね。
―宿を始めるまで、サラリーマン生活は順調でしたか?
土屋さん
しばらくして、会社が半導体の事業を撤退するということになったんです。専門的な話になるんですけど、半導体の世界ってシリコン半導体と化合物半導体っていう2種類あるんですね。化合物半導体の方はこれから事業が成長するぞと言われていたやつなんですがなかなか成長しなかったんです。それで今後についての面接があったんです。
「どうします? このご時世だからこの会社で希望する職種に就けないかもしれないですよ」
と言われました。それで、もういいや、辞める、ということで転職しました。その会社では13年間勤めましたね。
―転職先はどうやって探しましたか?
土屋さん
技術系の転職エージェントを通して探しました。エージェントに希望の職種を幾つか出して、その一つの大手電機メーカーに決まりました。仕事的には携帯電話の部品開発です。
―ほっと一息ですね。
土屋さん
しばらくした頃、今度は事業部ごと他の会社に買い取られました。その時は事業部の従業員が全員退職してからそのまま次の会社に入社し直すという形が採られたんです。自分もそこに入り直しました。買い取られるまでは12年間勤務して、その後入社し直してからは10年間勤務しました。
―大変でしたね・・。その入社し直した会社が、最後のサラリーマン生活になったんですか?
土屋さん
そうですね。50歳くらいになると会社でキャリアセミナーというのがあるんですよ。通称、肩たたきセミナーと呼ばれているやつなんです。
「あなた今までどんなことをやってきたんですか?」
とか、
「あと10年で定年だよ。これからどうしますか?」
というセミナーがあるんです。リタイアした時にどうするかというのがテーマで、いろんな課題があるけれど、こういうことやりたいという話になって、ゲストハウス経営という話にいっちゃったんですよ。
宿を始めることは当初想定していなかった
―サラリーマンをしつつ、いつかは宿を始めるという夢を温めていたんですか?
土屋さん
漠然と、移住したいなぁ、というのはあったんですよ。でも、移住して宿をやりたいとは思っていなかったんですね。なんでこうなったのかよくわかんないんですよ。
―不思議な力が働いたんですかね。
土屋さん
選択肢としては他にいっぱいあったんですけどね。でも、なんか結果的にこの道に来るようになってしまいました。運命なんでしょうかね。
―退職時は何歳でしたか?
土屋さん
56歳でした。多分定年が65歳に延びるだろうというのはあったんですね。で、65歳まで働いて、さぁ、これからどうする?となった時に、どうしようもないだろうな、と思ったんですよ。まだ元気で、なんかできるうちに辞めて次の仕事をしようかな、と思いました。早期退職といっても単に早く辞めるだけで何もプレミアムとか付かなかったんですね。その会社では55歳を過ぎると退職金の額が決まっちゃうんですよ。あとは定年までやっても変わらないから、まぁ、いっか、と思いました。それと、40代半ばの10年前にこの決断ができたかというと多分怖くてできなかったんですね。だから時期的にはこの時期しかなかったのかな、という感じです。
―いろいろと思うところがあったんですね・・。
土屋さん
それでも会社を辞める時は、宿をやるぞ、という目標で固まりました。
―宿の物件探しはどうやって進めましたか?
土屋さん
最初は小樽あたりでやろうと思ってたんですよね。いろいろ探したりしたんですけど、そうこうしているうちにここの前のオーナーから、
「昔そういえばここを買ってもいいようなこと言ってたよね?」
と、突然電話がかかってきたんですよ。
「確かにそうは言いましたけども」
から始まって、最終的には、
「じゃ、夏にそっちに行きます。話をしましょう」
ということになりました。でも、その時はまだ全然宿を購入する気はなかったんですよ。それで、実際に行ってオーナーさんと話をして、結局ここを手に入れることになったんですけど、建物の補修には大分お金がかかりました。
―前のオーナーさんは、なぜ宿を手放すことにしたのですか?
土屋さん
ご自身の年齢のことを考えたんだと思います。あと、今まで十分やったからもういいや、という感じで。元々旅人なんで、また自分でいろんなところに行っているみたいです。
―開宿して、どんなお客さんが泊まりに来ますか?
土屋さん
まだ間もないんですけど、大体3分の1くらいが昔ここに泊まったことがある人で、3分の1は自分の旅関係の知り合い、残り3分の1が初めて来る人、という感じですね。
昔この宿でヘルパーをやっていた人が来ましたね。その人がいろいろ見て、
「変わったなぁ」
と言ってました。
―弟子屈の魅力はどんなところにありますか?
土屋さん
屈斜路湖あるし、摩周湖あるし、それが魅力なんですけど、でも町が生かしきれてないな、という感じです。もうちょっとうまく使ったらいいんじゃない?と思いますけどね。隣の中標津町は中標津空港の滑走路と並走する道路がトップガンロードと呼ばれていて、そこがニンジャ(映画「トップガン」に登場したバイク)乗りの聖地になるんじゃないか、と言われているんですよ。中標津はそうやって一生懸命アピールしているんですけど、弟子屈で観光に力入れようと頑張っているのは川湯くらいですね。
―川湯ではどんなことをしていますか?
土屋さん
川湯の方だと、ゲストハウス経営している方がいろいろイベントを仕掛けているんです。隼っていう大きなバイクに乗っているユーチューバーの女性がいるんですけど、その人を呼んでイベントやったりしてますね。去年初めてやって、なかなか良かったんで今年は規模を大きくしてやろう、ということになりました。川湯から弟子屈を盛り上げていきましょう、と頑張っています。
―川湯といえば、体からまだ硫黄の匂いがします。欣喜湯(きんきゆ)の硫黄成分はすごいですね(筆者は弟子屈ベースさんにチェックインした時に買った川湯温泉欣喜湯の回数券を使い、取材前に温泉に入ってきた)。
土屋さん
あそこ、お風呂から上がる時にちゃんと沸かし湯の方に入って流さないと、後から肌がかゆくなったりするんですね。沸かし湯の湯船に入るか、かけ湯をして肌に付いた硫黄の成分を流すか、どちらかをすればかゆくなることはないと思います。
―お風呂場に入ったら湯船が2つあって、なんでわざわざ沸かし湯の湯船があるんだろうと思ってたんですけど、そういう理由なんですね。
土屋さん
そうなんですよ。あれは強い温泉の成分を流すためにあるんです。
熊出没注意。熊に出会わないようにするためには?
―川湯温泉から宿に戻ってくる途中で、野生の鹿が道路を横断してました。車にぶつからなくてよかったです。そういえば、この辺りで熊を見たことはありますか?
土屋さん
宿の近くでは見たことないですけど、隣の美留和(びるわ)で見ました。黒いのが動いているな、という感じでした。熊は60、70km/hくらいで走ってきますからね。車だったらまだ平気だけど、登山中とかだとちょっと危ないですよね。
―熊が追いかけてきたら、どうしたらいいですかね?
土屋さん
熊は下りに弱いみたいですね。前足が短いんで、下りを速く走ろうとすると転がっちゃうらしいです。ただ、人間も下りは早く走れないから、熊が転がるまでは走れないだろうと思います。
―やっぱり熊に出会わないようにするのがいいですね。
土屋さん
山登りしている人が言ってたんですけど、空のペットボトルを使ってペコペコと音をたてると熊除けにいいと言ってましたね。聞いたことがないような音だから熊が寄ってこなくなるんでしょう。
―それ、いいですね。ペットボトルなら大体持ち歩いています。
土屋さん
北海道のヒグマは2種類いるらしいですね。知床系と日高系がいて、足跡の形が違うらしいです。知床系というのがアラスカの方から来て、日高系というのがモンゴルの方から来たらしいんです。後者が昔から結構人間にいじめられて、人間に敵対するような本能があるらしいですね。知床系というのはアラスカなんで、食料が簡単に採れるので、人間なんかに構っているよりも自分で採った方がいい、ということで、性格がいいらしいです。
―このあたりは知床系だから、少しは安心かもしれないですね。でも熊に会わないように気を付けます。土屋さんの今後の目標は?
土屋さん
去年の10月にオープンしたばかりなんで、この宿を軌道に乗せるのが目標です。5月のGWもお客さん来てくれたんですけど、人数的には食事を出せるのが一日6人でいっぱいいっぱいなんですよ。宿の定員は公称13人ですけど、6人超えると仕事量が全然違うんです。そこをどうやってしのごうか、と思っています。ヘルパーさん、来てくれればいいんですけど、まだそういう話はないんです。
2024.5.8
文・園田学