「宿からサロベツを見ると
生きた証はこれかなと思う」
あしたの城
川上豊さん | 長崎県出身。1977年開業。開業当初は冬期の休館期間中に都内の某高級ホテルでルームサービスの仕事をしており、その時にジョン・レノンに怒られたことが今でも自慢。手頃な木を見つけて、フォトフレームや時計など気の向くままに作るのが好きだが、飽き性でもある。サロベツ原野で一番好きなのは原野が金色に染まる草紅葉の景色。 |
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「とほ」の冊子が発行される約10年前に開業した旅人宿の先駆的存在。旅で訪れた沖縄での出会いで何か目標を持って生きるということを教えられ、浜頓別町の宿での出会いから北海道で宿を開業することを決意する。仲間が物心両面で支えてくれたこともあり、25歳で開業した。その後火事に遭い、サロベツ原野を一望できる現在の場所に移転。名物は改良を重ねて完成した牛乳鍋。気象条件のいい日は海岸で夕日を見るツアーを実施している。
宿主というより仕掛け人?
宿泊者との時間を楽しんだ日々
―こちらは宿開業から43年! まさに旅人宿の「はしり」的な宿で、影響を受けたというとほ宿も多いですよ。
川上
長くやってるだけだよ~。
由貴子
「ああいう風にならないでおこう」っていう影響ね(笑)。
川上
ほかにできることないから。それなら一生懸命やるしかないじゃんね。
―営業努力のひとつに名物の「牛乳鍋」があると思うんですけど…牛乳×鍋の発想がそもそもすごいですよね。
川上
僕は「トシカの宿」(浜頓別町)の初代ヘルパーなんだけど、あそこはジンギスカンやってるでしょ。それでうちも何か、そんなに手間のかからないもので名物を作りたいなっていうのがあったんですよ。正直言って僕は大して料理はできないの。それで、鍋料理をやろうって。で何の鍋にしようっていろいろ考えて。ここにしかない材料…そういえばここには牛乳がある! よし、牛乳で鍋を作ろうってことになったんだよ。
―豊富町は酪農が盛んな地域ですからね。
川上
宿をはじめて1年か2年目の頃だね。酪農家さんと付き合いがあったから。でもド素人の発想だから、味付けは、塩・コショウだけ、からはじまってしょうゆを入れてみたり…手元にある調味を何でも入れてみて。
―今は洋風テイストでおいしくいただけますが、昔は「白い悪魔」と恐れられていたそうで。
川上
当時は1、2週間いるお客さんも多かったわけさ。で、「今日の夕飯何?」って聞かれて「牛乳鍋だよ」っていうと「げっ!」って(笑)。お金払って泊まってくれてるお客さんに食べてもらって開発してきたからね(笑)。
―あはは。
由貴子
つくづくネットの時代じゃなくてよかったわ~。
川上
3年ぐらいやってるうちに牛乳鍋が有名になったでしょ。そうなると「今日の夕食は牛乳鍋だよ」って言うと、わーって喜ぶじゃん。だから、鍋に牛乳のパックをポンと入れておいたりね。あはは。
―あははって…。
川上
そういうのがだんだんエスカレートしてきてさ。ヘルパー、連泊者としめし合わせて、その日に来たお客さんに夕飯はカップラーメンだけっていうウソをついたり。連泊予定だった女の子が「ホントに夕飯これなの?」とかぼそぼそ言ってるんだよ。僕らは台所でちゃんと出す夕飯の用意をばれないようにしながらその会話を聞いてるの(笑)。
ーニヤニヤして見ている川上さんたちの顔が浮かびますよ!
川上
そう。おもしろいんだもん。自分らが楽しむためにやってる。だまされたお客さんは、もう怒ってるんだよね。それで「翌日一番の列車で帰ります」って言い出して。その後、冗談だってわかったら「私やっぱり連泊します! また明日もやるんでしょ」って。
―自分がだまされたらほかの人をだましたくなる!
川上
そうそう、くやしいから(笑)。そうやって「どっきりカメラ」みたいなことしてた。当時のお客さんはほとんど列車で来てたから、だいたい何時くらいに来るってわかってたのさ。それで来る頃を見計らって、窓のカーテンもカギも全部閉めて「お客様各位へ。『あしたの城』は営業不振のため本日より休業いたします」って張り紙したりね。連泊してるお客さんとそーっと外を見てると、来たお客さんが入口の所で「えーっそんなぁ」「どうするの!」ってやってる。
―話を聞いているだけでもニヤニヤしちゃいますね(笑)。
川上
でドアをバッと開けて「いらっしゃい!」って(笑)。1年以上そういうことばっかりやってた。その時一緒にいたずらしていたヘルパーとかは今でもつながりあるね。
―もはや宿主って感じじゃないですね。
川上
ないない。宿でもうかるなんて考えてなかったもんね、最初の頃は。でもそんなことばっかりやってたら「この宿は、おもしろいことをしてくれる」ってなってきちゃった。それを期待して来た人には、まじめなこと言っても「いや何かあるんでしょ」ってなっちゃう。それで僕も疲れちゃって、もうやめようって。
―自分の楽しみだったのに、それを期待されるようになると、確かに…。でも、宿主もお客さんもみんなで遊んでいる感じが「あしたの城」の創成期、第一期という感じですね。
川上
そうだね。
―そうなると第二期は…。
由貴子
今の場所に移ってからが中盤なんじゃない。
―その後は…?
川上
それははっきりしてる。ネットの時代になって宿のHPを作ってから!
漫然とした人生を変えた
旅先での2つの出会い
―そのHPで、宿のはじまりについては詳しく紹介されているので、細かい点はそちらを見ていただくことにして…、宿をはじめたきっかけは「トシカの宿」でヘルパーをしたことだったんですよね?
川上
そうだね、20歳くらいの時のことだね。高校を出てプラプラしてた頃。フリーターみたいなもんだ。高校卒業後は進学も就職もしないで半年くらい地元の佐世保でアルバイトしてたんですよ。運転免許を取るために。
ーまずは車、だったんですね。
川上
僕の地元では造船所に入って溶接工になるのが出世コース。でも、造船関係のアルバイトをちらっとした時に、合わないな~って思ったのと自分には協調性がないから会社勤めは無理だな~って思ってたの。かと言って勉強する気もなかったし。親も自活するんだったら何やってもいいっていう感じだったから、とりあえず車の免許を取ろうって。まわりも車を買って女の子引っかけて遊びまわるっていうのがすべてっていう感じで。
―はは。なるほど。
川上
そして車を売って結婚する。
―あはは。
川上
それが人生だと思ってた。それで免許を取った後は車が欲しいからお金をためようって思ったんだけど、佐世保だと賃金が安いから、大阪に出てガソリンスタンドに勤めたんですよ。唯一の会社勤め。そこで半年間一生懸命働いたけどね、今で言うブラック企業だったんだろうね。だって1日12時間以上労働して月2回しか休みがないんだもん。その休みも洗濯したら、寝るだけさ。若くて体力があり余っているはずなのに。
ーかなりきつかったんでしょうね。
川上
そのガソリンスタンドには何人か長崎県出身の人がいたんだけど、その中に今でも付き合いのある人がいて寮でよく愚痴ってたの。「このままじゃ、うちらどぎゃんなっちゃろか」っていう感じよ。当時は高度経済成長期だったから売り上げの競争もあって、必要もないのにお客さんに部品の交換を勧めたりしてね。そうやって売り上げを伸ばした人が出世するような所だったんだけど、うちらは「こぎゃんことしとってよかっちゃろかい」「そがんことできんよね」って言ってさ。だんだんしんどくなってきて、その人がもう辞めるって言いだした。それが刺激となって「オレも辞めるばい」って。車なんてもうどうでもいいやっていう感じになった。スカイライン2000 GTを買いたかったんだけどね。
―はは。
川上
その人がアパート借りたっていうからオレも行っていいかいって言って2人で暮らすことにして。で、仕事を辞めた記念に一緒に沖縄旅行行こうっていうことになったんだよ。
―いいですね~。
川上
でも僕が自己主張が強いからだろうね、行ってもすぐに別行動になったもん。
―あはは。
川上
でもだいたい行くユースにいるんだよね。
―気まずい~(笑)。
川上
結局一緒に帰ってきたけどさ(笑)。それが2週間くらいの旅だったんだけど、そこでね、はじめて人生を語る人に会ったんですよ。自分の生き方とか、今の社会についてとかさ。
―そういうことを話す人が、まわりにはあまりいなかったんですね?
川上
僕らなんて、ただ働いて車買おうぐらいの感じだったし、まわりの大人も生活に追われてたし。だからユースで会った人たちがすごくキラキラ輝いてたんだよ。こんな生き方があるんだって。特に竹富島で知り合った人には影響受けたね。僕と2、3歳くらいしか違わない人だったんだけど、日本中を放浪した後に、「終の棲家を見つけた」って沖縄が日本に返還される前から竹富島に自分で家を建てて暮らしてた。そこが旅行者のたまり場みたいになってて。そういう人だからさ、いろんな人が来て、いろんなこと話していくんだよね。だけど話の内容についていけないこともあって(笑)、こりゃ本読まないとだめだな、勉強しないとだめだなっていう感じはしたよね。で、自分の目標を持って何かしないといけないなと思って。
―それまでとはだいぶ心持が変わったようですね。
川上
実は僕にもひとつだけやりたいなっていうことがあって、それを大阪に戻ってチャレンジしてみたんだよ。
―それはお仕事関係ですか?
川上
うん。「これだったらできる」っていう物を誰でもひとつくらいは持ってるじゃない。だけど…結局だめさ。失意のどん底。それで、沖縄で会った旅人たちから「いいよ」って聞いていた北海道に行くわって、同居人に言って。もう1回旅に出ようってことに。
―そんな感じで最初に北海道を訪れたんですね。
川上
北海道ではヒッチハイクでぐーっとまわってたんだけど、乗せてもらった車が偶然止まったのが浜頓別。実はその前に北海道の三大民宿のひとつって言われていたサロマ湖の宿でヘルパーを約2か月していたんだけど、そこの元ヘルパーが、浜頓別で宿をはじめるっていう話を聞いてたんだよね。その話を思い出して行ってみた。それが「トシカの宿」の先代の宿主。ちょうど建物が建ったばっかりで。
―まだ開業前だったんですね。
川上
だからいろいろやることがあって、「お前時間あるなら手伝っていかないか」「いいですよー」って。で2、3日いるとすごく居心地よかったんだよね。それで、なんとなく1シーズンいて。わぁ北海道っていいなって思って。そこからだね、「宿業」って思ったのは。
―その前にヘルパーをしていた時は、まだ宿をやろうっていう感じではなかったんですか?
川上
なかった。トシカの宿の宿主とめぐり合って、「あーこういう生き方もあるんだな」って思ったってことだよね。「これだったら自分にもできるかな」って。
―「これだったらできるかな」というのは、どういう意味でですか?
川上
トシカの宿の宿主は、裏表がない人だったんですよ。馬鹿正直な人で。だからやりやすかったんだろうね。僕は失言が多いんだけど(笑)、「そんなこと言うもんじゃない」とか言われたこともないしさ。お金のために言いたくないことを言ったりする必要もなくて。思ったことを言って生活できるんだったら自分でも…って。
―取り繕わなくていい仕事だと思えたんですね。
川上
大阪に戻って、北海道でこういう人に会った、宿の仕事がおもしろそうだっていう話をしたら応援するよっていう仲間が3、4人いてさ。「よかね、じゃあ北海道に土地買おう」ってお金をかき集めて。
―そこで⁉
川上
で、2シーズン目にトシカの宿の宿主に「宿をやりたい」っていう話をしたら、金銭的には協力できないけど、他の部分で協力するから頑張ってやったらどうかって言ってくれて。で場所はサロベツなんかどうだって言われたの。当時は朝、豊富駅に特急が着くとサロベツ原野に向かって人の列ができるくらいお客さんが来てたし、宿のお客さんも紹介し合えるからね。でも僕は、旅人から穴場って聞いてた大樹町がいいなと思ってて。で下見に行ったんだけど、雨で心象がすごく悪かった。それでサロベツだなって。こっちに下見に来たのがちょうど6月でエゾカンゾウの花が満開だったんだよね。サロベツ原野が一面真っ黄色だった。
―大樹町も自然豊かでいいところですが、サロベツには、1年で一番いい季節に来ましたね!
川上
大阪で一緒に住んでた人は学生だったから「金はないけど、労働力は提供するから」って1年休学して建てるのを手伝ってくれてね。
―それはすごい!
川上
まぁ成り行きでそうなっちゃったんだけど(笑)、仲間たちがいたからできたようなもんだ。トシカの宿では宿を建てた時の話もよく聞いてたから、オレもそういうことならできるかなって感じだったよね。そしたら協力者もできたからさ。じゃあやろうって決めて。
―お金はなんとか間に合ったんですか?
川上
足りなかったから途中でバイトしたりして2年ぐらいかかった。建物は骨組みだけ大工さんにお願いして、あとは全部自分らで建てたからね。僕が23歳の時に着工して、25歳でオープン。そうやってみんなで建てた家だから、みんなのお城みたいな存在だよ。宿の名前は1回来たら絶対忘れないようなものにしようって。それで「あしたの城(ジョー)」っていう名前にしたの。いまだに「あしたのしろ」って読む人がいるんだけどさ…(笑)。
女将力作のHPで
新たな宿の時代がスタート
―最初に開業したのは別の場所なんですよね?
川上
ここから直線距離で500mくらい離れた山の中。水道がなかったから井戸を掘って保健所に許可を得て合法的にやってたんだけど、なかなか水がたまらないからさ。風呂であんまり水使うなーとか言ってた(笑)。
由貴子
よくそれで宿をやるよね。
―本当ですね(笑)。
川上
最初は電話もなかったしね。そこで営業してたのは13年くらいかな。
―ご結婚されたのはその建物の時代ですね?
川上
そう。ひとりの時はプライベート用の部屋なんかなかったから、結婚することになって、建て増しをしてね。
由貴子
でも建て増しした建物で営業したのは3年だったね。
川上
焼けちゃったからね。
―薪ストーブの煙道火災で全焼してしまったそうですね。HPの記事によると発見が早くて、1組いたお客様は荷物とともに逃げ出せたようで何よりでした。ただ、おふたりは大事なものは持ち出せたんですか?
由貴子
私が持ち出したのはね…今、階段のところにかけてある大きなパッチワーク、あはは。
―え~!
由貴子
ちょうどその日に作業してて手元にあったから一番に持っていった、あはは。
―それこそ貯金通帳とか写真とかは…。
由貴子
写真は何も持って出なかった。ただ運よく炎が天井を伝ったので、1階にあったものが全部助かったの。
―不幸中の幸いでしたね。ただ、もう一度宿をはじめるに当たって必要なお金の工面やモチベーションの面では大変だったのかな、と思います。
川上
10年以上宿をやってみて、この商売のいい所も悪い所も見てたから、続けるべきか考えたんだよ。
―そうですよね。しかも当時まだ30代…。まだまだほかの道に進もうと思えば進めますよね。
川上
まぁ勤めるのは無理だなと思っていたし、地域に知り合いもできていたから迷っていて…。実は前の場所で宿をはじめてから、今宿が建っているこの場所に来たことがあったんだよ。持ち主の酪農家さんに連れられて。それで「あ~こんないい場所あったんだ」って。
―サロベツ原野の眺めが最高です!
川上
その時に「お前ここで宿をやればよかったのに」って言われたんだけど、移る資金もないし。だからその話はそれで終わりさ。
―すでに開業していますからね。
川上
でも火事のあと、その酪農家さんがここを好きなように使っていいからここでやれって言ってくれて。
―そうでしたか。
川上
ここを使っていいならオレやるわってなったの。
―この場所だから、ですね。お金の方はなんとかなったんですか?
由貴子
ちゃんと火災保険に入っていたので。余裕がなかったからこそ、何かあった時のためにと思って真面目に加入していたんだけど、再建するにあたって保険がこんなにありがたいものだとは思わなかった。
―備えておいてよかったですね…。その後の大きな区切りがネットの時代になったことですね。
川上
それははっきりしてる。これは嫁さんの世界。お客さんから、もうネットの時代が来るからHPを開いてって言われてたんだけど、僕は「そんなもんやるくらいになら宿をやめるよ」って言って。
―はは。抵抗を感じる気持ちもわかります。
川上
それを「あなたはやらなくていいから私がやる」って。要は危機感があったんだろうね。このままじゃ食えない、と。子どももいたしさ。
―危機感があったんですか?
由貴子
今でもあります!
ーはは。
川上
嫁さんがいるから、うちの宿は続いてるんじゃないの(笑)。
―由貴子さんは川上さんから「ネットなんか!」って言われながらも、HPを作りはじめたんですね?
由貴子
HP用の写真を撮りに行こうとしたらものすごい怒って。そんなことするんだったら窓でも磨けって。
―え~~~!
由貴子
今では天気がいいと、「行っておいで」って(笑)。
川上
やさしいでしょ? HPを見てお客さんが来てくれることがわかったからね(笑)。実際、写真もうまいんですよ。
―そうですよね~。写真はいつから撮りはじめたんですか?
由貴子
HPをはじめてから。HPに載せるため、です。
川上
独学ですよ。こんな写真、オレ撮れないもん。
―勉強家ですね~。
由貴子
いや、危機感からです(笑)!
川上
写真がいいからね、よくうちのHPは誰が作ってるんですかって聞かれるんですよ。業者に頼んでるんでしょって。僕はあんまり見ないからわからないけど…。
―HPは全部ひとりで作ったんですか?
由貴子
ひとりで作りました。
―よくやりましたね。
由貴子
HPを見たお客さんがヒントをくれるから。写真も、例えば最初はただ星が写れば喜んでたけど、写真に詳しい人が、時間を考えて撮りなって言ってくれて。薄暮、薄明の時間とか、月の出の時間とか。あと星座の位置とかを考えて撮るともっといい写真が撮れるようになるよって。
―そういうアドバイスを受けながら腕を磨いていったんですね。
川上
HPに星空の写真をあげると星を見にっていうお客さんが来るもんね。それだけの材料をサロベツは持っているっていうことだよ。このサロベツの景色を見ながら暮らせるのは幸せだなと思うよ。
―そうですよ。うらやましいとしか言いようがないです。
由貴子
だから環境を整備して、環境でお客さんを呼びたいなと思って。
川上
いまは景観をウリにしてるんですよ。年を取ってきて飲み会もそんなにできないしさ。とほ宿ってお客さんがそのオーナーに付いていることが多いじゃないですか。でも僕はこの景色を見てくれた方がいいの。
由貴子
宿のまわりも段階を経て手入れしてきたから。以前はサロベツ原野側も目の前がささやぶだったの。それを花壇にしたりして。オーナーの年齢的に、お客さんと夜飲んだりとかどこかにツアーに行ったりとか、そういうのが難しくなってくるんだったら、ここの環境をよくして他にはない物を持っておかないといけないって私は思ってる。
川上
5、6年前だからね、このスタイルにしたの。原野の反対側は元々農家さんの土地で好きに使えって言ってくれて。ただ、そのままにしておくと雑草がすごいのさ。宿の商売としてもマイナスだから、嫁さんがここを全部芝にするって言いだして。でも手入れするの僕だからさ(笑)、やだって言ったんだよ。
由貴子
そこで強烈にもめたんだよね(笑)。でも私が押し切って。
―確かに坂道を上がってきてこの芝生の庭を見ると、わぁって思いますね。
由貴子
「この先、本当に宿があるんだろうか」って心細くなるような、木がうっそうとした私道を越すからこそ、じゃないかな。
―確かに。そういうギャップからの感動もありますね。
川上
嫁さんの言うとおりにしていれば大体大丈夫なようになるから。
―はは。それにしても40年以上続けるってすごいですよ。
川上
逆にそれしかできないのかと思うと情けないよ…(笑)。
―明るく締めてください(笑)!
川上
はは。薪ストーブを炊いたり、木で何かを作ったりとかそういうのも好きだから。この景色を見ながらのそういう生活がここにはあるからね。
―「あしたの城」の歴史の中で印象に残った出来事を3つ選ぶとしたら何になりますか?
川上
それで言ったら火災事故が一番。あとは…嫁が来てくれたってことだね。
―むしろそっちが一番だと思いますけど。
川上
僕は冗談で言ってるのに、あなたがそれを言っちゃうの(笑)? あとは…サロベツの一番気に入っていた場所に宿を建てられたってこと。この景色を見ると、「オレの生きた証はこれかな」と思う。
由貴子
この景色だけが財産やな。
2020.7.7
文・市村雅代