「北海道移住を実現できたのは
夢でなく目標だったから」
ロッジ 風景画
山下健吾さん | 埼玉県出身。機械設計士だった父親の影響で機械いじりやモノづくりに興味を持つように。生き物好きでザリガニやウサギ、イモリ、インコや様々な昆虫を飼ってきた。高校時代から社会人までの10年間は学校や会社の部活などでバドミントンに励み、体力にも自信を持つように。富士山を走って登ったこともある。2002年に宿開業。宿の閑散期には山登りと釣りをしながらの旅をしている。 |
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北海道、その中でも道東で暮らすと決めたのは20歳の時。実際に何をして暮らすかを考えるために訪れたニュージーランドで、自分の好きなモノづくりや釣りをはじめとするアウトドア・アクティビティなどの経験を生かせるのは宿業だと思い至る。その後、宿泊施設を新たに開設するという会社に勤めたものの思い通りにはならず、自力で宿をはじめることを決意。立地には徹底的にこだわり清里町の斜里岳を望む場所で開業した。冬は神の子池や知床方面でのスノーシューツアー(5000円~)を実施。町の観光事業にも携わり、移住の相談にも積極的に応じている。
北海道でどう暮らすかを
煮詰めて出した、宿業という選択
―斜里岳を背負った外観も、談話室の窓から切り取った斜里岳の姿もまさに風景画のようですね。宿名は、建物が完成してから考えたんですか?
山下
営業許可を取る時に宿名をどうするかって、談話室の窓からずっと斜里岳を眺めながら考えていたんです。「風景画みたいだよな、ここ。だからどうしようかな…あれ? 『風景画』でいいんじゃない?って。実はもう1個、最高にいい名前を思いついていたんですけど、忘れちゃったんですよ。だから「風景画」でいいやって。その宿名、いまだに思い出せない(笑)。
―はは。「風景画」でぴったりだったと思いますよ! 20歳の時にバイクで北海道に来て「いつか道東エリアに住もう」と思ったそうですね。それから、実際に暮らしはじめるまで15年かかったそうですが…その間モチベーションをよく維持できましたね。「夢」で終わらなかったのがすごい。
山下
「夢」じゃなかったからですよ。「目標」だったから。夢ってかなわないことが多いけど、目標だったから。
―だから「どうやったらできるか」と考えてきたということですね?
山下
それを考えるのに15年かかったというか…。大学を卒業した後は会社員をしていたので、毎日仕事に追われて考える時間がなかった。それでも「いつかは行こう、いつかは行こう、北海道に住みたい、住もう、住もう、絶対住もう!」って考えていたんですよね。北海道には19歳ではじめて行ってから、最初の会社を辞めるまで毎年行ってました。バイクにキャンプ道具と釣り道具を積んで、キャンプしたりとほ宿やユースホステルに泊まりながら移動して。で、最初の会社を5年で辞めて27歳の時にニュージーランド(NZ)へ1年間の旅に出たんです。旅のテーマは「考える」。北海道で何をするかっていうのを考えることが旅のテーマのひとつだったんです。とにかく遊びたかったっていうのもありますけどね。
―はは。
山下
働いていた時も、毎週末ツーリングに行ってましたし、冬は12月から4月までスキーに行かない週はなかったですから。休日部長みたいな感じです。だからとにかくバイクで移動してキャンプしながら釣りをしたかったっていうのもありました。
―長い旅に出て、遊びつつも考える時間が取れるようになった。
山下
日記を毎日書いて、過去現在未来…どう考えるべきか。哲学書も読んだことないのに、哲学的なことばっかり考えてましたね。
―ここで大体の目星がついたんですか。
山下
ずーっと考えてて、ある日結論を出したんです。スチュワート島という所を毎日股まで泥に埋まりながら徒歩で2週間くらいかけて1周したんですが、その時泊まった山小屋の2段ベッドの上で「やっぱりオレは宿泊施設だな、宿をやることを目標に決めよう」って。今でもその瞬間のこと覚えています。
―“宿をやりたい”とはちょっとニュアンスが違うんですね。
山下
「レーシングドライバーになりたい」とか「プロ野球選手になりたい」とか、子どもの頃の「夢」とは違って、現実的に自分には何ができるかって考えてそれが宿だった。最初に勤めた会社ではレーザープリンターの設計をする機械設計士の仕事をしていてモノづくりは好きだったし、アウトドアも好き…自分の好きなことが全部生かせるものは何だろうって。機械設計士時代の知識は、この建物を自分で建てた時、ベースの部分で役に立ったと思います。
―山下さんは知る人ぞ知る釣り好きですが、他にも登山などいろいろなアウトドアの趣味がありますよね。そのうち、最初にはじめたのは何だったんですか?
山下
釣りです。親父が好きだったから、小学校に入る前くらいからしょっちゅう釣りに行ってました。海も川も行ったけど川の方が多かったかな。最初の会社にいた時には釣りがしたくて船舶免許も取ったんですよ。新潟県と福島県の県境にある銀山湖っていうダム湖でオオイワナを釣りたくて。
―船舶免許をお持ちでしたか!
山下
山も元々は釣りをするために登ったのがはじまりかな。NZで釣りをするために山を登って。それで山登りが楽しくなったんですよね。カヌーも、水の上で釣りがしたいっていうことからはじめたんですけど、川下りをはじめたら「これはおもしろい!」ってなって。しかも動力がいらない。結局それで船舶免許を更新しなかったんです。
―そういった「好きなこと」すべてを生かせる仕事として宿業にしよう、と。そう思ったのは旅をはじめてどれくらいたった時だったんですか?。
山下
中盤ですね。12月に行って、4月に決めたから。会社を辞めて3か月で頭がクリアになりました。その旅の途中、3週間ほど滞在したユースの立地もすばらしくて、宿をやるなら「これだ!」って。
―どんな所だったんですか?
山下
目の前にテカポ湖という大きな湖があって、ずーっと山に囲まれてる。うちの談話室はそのユースにあった窓を参考にしたんです。こういう風に窓から風景を眺められる場所にしようって。
―じゃあそうやって北海道で「何をするか」を決めて帰国したんですね。
山下
帰国してから1年半くらいはNZで知り合った日本人から紹介された戸隠村(現長野市)の宿で働いたんです。「宿をやりたいなら修業を兼ねて働かないか」って言われて。宿泊者数40人くらいの規模の宿だったんですけど、料理、接客からそば打ちまで全部やらせてくれたので、仕事の流れをつかむことができました。スキー場が目の前だったからスキーのインストラクターもやったし。ご主人が山もスキーもっていうアウトドアの達人だったし。
―山下さんにぴったりの宿でしたね。
山下
そうでしたね。その後にアウトドアショップに入ったんです。全国に25店舗あるお店だったんですけど、キャンプ場や宿泊施設を運営する計画があったんですよ。それで、ぜひ!と思ったんだけど、募集は28歳まで。当時僕は30歳。それで、年齢はオーバーしてるけど、これまでこういうことやってきましたって言ったら、事業部長が「おもしろい! ぜひうちに来い」って言ってくれて。
―それはよかった。
山下
ただ、入ってからは基本的に店員とバイヤーでした。でも、小売り業だったんでお金と物の流れが分かったのはすごく勉強になりました。最初の会社は大きな組織だったから完全に分業されてて、僕はプラスチック素材の物の設計とかはできるんだけど、材料をいくらで仕入れていくらで売るとか、値段の付け方とかそういうのは全然わからなかった。キャンプ部門のバイヤーだった時は…バイヤーっていうのは力あるんだなと思いましたね。
―自分が「これぞ!」と思ったものを仕入れられるんですもんね。
山下
僕が関わっていたキャンプ部門の予算だけで17億ありましたから。
―じゅう…! 25店舗という規模だとそうなるんですね~。
山下
1憶とか2億とかの商談をこんなに簡単に決めて、いいのかな?みたいな感じですよ(笑)。僕自身は大して仕事もできないのに。
―はは。最終的に宿泊施設の仕事はできたんですか?
山下
実際にキャンプ場の話が動き出したんで、北海道とかNZのキャンプ場の図面や写真を使って、こういうふうにって提案したんだけど…結局キャンプ場のために新たに人を雇うことになって。もう、がっかり。完成したキャンプ場もちょっとバブル的というか。僕はあくまでも自然の形状を生かしたものにしたかったんです。森にあるんだったら、下草だけ切っておくような。でも社長はそういう考えじゃなかったみたいでブルドーザーで全部きれいにしてしまって。
―それは残念でしたね…。
山下
で、会社を辞めて北海道に行くことを考えている時に、道北の上川町でガイドの会社をやるから来ないかって声をかけられて。そこも将来的には宿泊施設をはじめるからって話だったんです。渡りに船だった。
―15年越しの目標だった北海道へ! そして宿! 一気に目標に近づきましたね。
北海道で暮らすという目標は達成するも
思い描いていたのとは違う日々
山下
アウトドアショップ時代に結婚したんですけど、嫁さんには付き合っている時からいつか北海道に行くっていう話はしていて。でも北海道のガイド会社に勤めるっていうことは僕がひとりで決めて帰ったんで、すごく怒られました(笑)。
―ふつう怒りますよ!
山下
しかも、引っ越して来たら、用意されているはずの家がなかったり。給料は半年出なかったし。
―はい⁉
山下
社長が…よく言えばかなり変わった人で(笑)。その会社、半年でつぶれたんです。生まれて半年と1歳半の娘たちを連れて、会社を辞めて行ったのに…。
―宿泊施設はどうなったんですか?
山下
結局やらなかったです。 カヌー、ラフティングと登山のガイド会社だったんですけど、北海道に来るきっかけ的にはよかったと思っています。道内にいるほかのガイドさんとのつながりができたし、会社の専務は、一般の書店で扱っている山の地図に山の情報を執筆しているような、まさにプロフェッショナルなガイドで、ガイドの心得を学ぶことができた。山に関すること全般と人生においても師匠であり大恩人です。…でも石狩川の激流でのラフティングは本当に命がけでしたね。今考えるとよくやったよなって感じ。毎日激流にもまれて自分も落ちるしお客さんも落とすし、船はひっくり返すし。本当に危なかった。
―ラフティングの経験はあったんですか?
山下
全くない。レスキューの訓練はしっかり受けたし、カヌーはアウトドアショップ時代にサンプル品とかに乗る機会もあって、ガイドをすることに決まってからは同僚のカヌーのプロガイドに教えてもらってなかり練習していったけど。ラフティングはガイドをはじめてから、NZやニセコでラフティングガイドをしていた人に教わりました。今はガイドになるにもある程度の腕がないと、とか資格が必要だったりしますけど、当時はそんなのなかったんで、僕はすべて実践で覚えました。ラフティングのコースも自分たちで造ったんです。激流をかわしながら石や木を除いて、ロープを張って。当時の経験が血となり肉となってますね。
―何よりも事故が起きなくてよかったです。
山下
でも毎日ラフティングでお客さんを乗せて帰ってくると、どんどん痩せていきましたけどね。いくら食っても。
―大変だ…。
山下
ラフティングの船って重いんですよ。2人でようやく持ち上がるぐらい。でも数週間してくるとだんだん持てなくなってきた。体力が落ちてきて。同僚と2人で「疲れてるな、オレたち」って。休みはないし。ガイドは僕ともうひとりしかいなかったので、5、6月はカヌーとラフティングのガイドをして、7月になったら登山ガイドのみ。毎日大雪山に登ってました。花の名前もわかんないのにね。
―ガイドさんにも得意、不得意分野はありますからね。
山下
だからガイドする場所に前日に行って、咲いてる花を片っ端から調べて手帳に書いて覚えて覚えて。で、次の日にお客さんを連れて行くと新しい花が咲いてる。
―あはは。
山下
「この花、名前何て言うの?」って聞かれて「わかんない」って言うと、「お兄ちゃん、ガイドなのにわかんないの。それは○○よ」って教えてくれる。お客さんの方がよっぽど詳しい。ガイドでも全部知らなくてもいいって、その時わかりました。かわし方を覚えたというか(笑)。
―はは。では結局その会社では、宿泊施設に携わることなく…。
山下
そう。アウトドアショップでも上川のガイド会社でも宿泊施設をやるって言われたのに空振りしたんですよね。それで人の力を借りて自分の夢を叶えるのはだめだなって気が付いて、開き直りました。これはもう自分の力でやるしかない。まわり道しないでストレートにやる。じゃあどうするかって。またゼロからはじめることになった。
念入りにリサーチし、
ここと思い定めた場所で開業
―場所は20歳の頃から道東がいいと考えていたようですが、道東と言ってもかなり広いですよね。
山下
広大な風景が広がっていること、魚のいる湖や川があること、山がきれいに見えること…自分なりの条件を挙げていって、まず役場をまわったんです。それで町の雰囲気をつかんで、数か所に絞っていって。清里町の町長に面会をお願いして考えを聞いたりもしましたよ。
―すごく念入りに下調べをしたんですね。
山下
これで失敗したら生きていられないと思ってましたからね、ははは。
―比喩だと思いたい…(汗)。でもガイド会社ではお給料が出てなかったんですよね。小さいお子さんが2人いて、さらに新しいことをはじめるとなるとかなり大変だったのでは…。
山下
経済的には極めて困窮しましたね。はは。親にもずいぶん世話になりました。だってすでに路頭に迷ってるんだから。
―確かに…。そこで諦めなかったのがすごい! この建物は、コストダウンの意味合いもあってご自身で建てられたんですよね。
山下
そうです。とにかく安く仕上げたかったし、モノづくりも好きだし。上川町からまず斜里町に移ってきたんですけど、そこで建設作業員のアルバイトが見つかったんで、家づくりのことをいろいろ教えてもらったりもして。とにかくコストを下げたかったので、ほら、洗面台には…。
―まさか…調理用のボウルですか?
山下
そう、結構いいでしょ(笑)。
―言われなきゃ気が付かないかも…(笑)。そうやって自力でできるところはやって、いよいよ2002年に開業ですね。
山下
でも宿をはじめてから最初の3年は全然お客さんがいなくて、夏の一番忙しい時期、7月でもお客さんがいないこともあった。だから、基本的に日曜以外は毎日建築作業員の仕事。お客さんがいる時は朝お客さんに料理を作って出して、昼は建築作業員の仕事をして、夜はまたお客さんの食事を作って。夏は上川時代の上司のつてでガイドもしてました。知床が世界自然遺産に登録されるかもっていう頃で(2005年に世界自然遺産登録)お客さんが多くて、1日3回知床五湖のガイドしたり。当時は百名山ブームでもあったので、夏は毎週、羅臼岳、斜里岳、雌阿寒岳に登ってたし。冬はスキー場でのバイトをしていたから、夕食の準備が終わったらスキー場へ。それが3年くらい。
―大変でしたね…。
山下
特に2年目くらいまでは本当にお客さんが来なくて、すごく気分が落ち込みました。オレでもこうなるんだなって感じ。働きすぎでしたね。それでも食っていくので精いっぱいで疲れちゃった。いっつも全力でやってたんです。全力で宿をやって、全力で建設作業員をやって、全力でスキー場のバイトをやって。いつも縄がピーンと張ってて、8本よりの縄のうち3本か4本切れていた感じ? ヤバいなっていうのが自分でもわかった。それでもうダメだって思いはじめて。ここに石油まいて、この建物を棺桶にして死んじゃおうと思ったんですよ、ほんとに。木だから燃えるし。ははは。
―…よくそこで踏みとどまってくれました。
山下
友達が「北海道に行ってせっかく宿をはじめたんだからもっと気合を入れなきゃダメだ」って言ったんです。気持ちが落ち込んでいる人を励ましちゃダメだって言うけど、その時は尻をたたかれて「そうか、がんばんなきゃな」って思えた。いろんな問題をクリアしてこの景色を手に入れたんだからって。
―そうですよ。宿HPの北海道移住記によると土地の取得までには用地転用の手続きや水の確保でかなりの苦労があったようですね。
山下
農家さんの多い土地なので、当時うまくいかなかった理由も今ならわかるんですけどね。…それで何とかやってるうちにお客さんが来てくれるようになって宿が主体になっていった。「とほ」本のおかげもあったと思います。
―元々とほ宿やユースを使って旅をされていたということですが、とほネットワークに入ろうと思ったのはどうしてだったんですか?
山下
ひとり旅がとにかく好きだったし、ユース以外にひとり旅を歓迎する宿組織がとほネットワーク以外見当たらなかった。実際、泊まったとほ宿にはいい思い出しかないんですよね。
―とほ宿は相部屋メインの所が多いですが、「風景画」は相部屋よりも個室利用のほうが多い印象がありますね。
山下
開業当初は相部屋の方が多かったんですよ。
―そうなんですか!
山下
最初は相部屋2つと個室ひとつしか部屋がなかったから。だけど、開業して7、8年目くらいかな…時代が変わってきてるのをすごく感じたんで、個室を増築したんです。
―こちらは夜のお茶の時間は特に設けてないんですよね。山下さんは23時頃まで談話室にいらっしゃるので、話したい人が話したい時に行く、という形で。
山下
それは宿の場所柄ですね。北海道の外周にある宿だったら、ひとり旅の人も多いし旅人宿に慣れているお客さんも多いから夜のお茶会が客層とマッチしているかもしれないけど、うちは知床観光で来ている人もいるし。
―新婚旅行でいらしている人もいましたね。
山下
うち新婚旅行多いんですよ。お客さんの平均年齢も若いと思います。それでも最初は12時過ぎまで毎日、お客さんと宴会してましたよ。
―最初の頃というのは…毎日建築作業員をやっていた時代ですね?
山下
若かったから。よくやってたよな、ほんと(笑)。最初は紛れもない「酒飲み宿」でした。今でも昔のお客さんが来ると毎日飲み会です。
―はは。じゃあ今はお客さん同士が知り合う機会というと夕食の時間になるんでしょうか。
山下
お客さん同士が仲良くなるようにっていうのはいつも考えてます。夕食の席は一応部屋ごとになってますが、山に行く人同士は近くになるようにしたり…なるべく近隣の自然の情報を共有できるようにしています。
―宿の食事に山下さんが釣った魚も時々登場するようですが、釣りはずっと続けてらっしゃるんですよね?
山下
釣りはずーっと好きですね。サケ釣りなんかは趣味と実益がごちゃごちゃになってて…あれは釣りじゃないな、漁だ(笑)。
―はは。
山下
釣りを核にして山に登って、カヌーに乗って、川で遊んでってしてきましたけど、それを今は別々に楽しんでるって感じです。アウトドア系のアクティビティを通じてお客さんに「楽しみ方」を伝えるようにしています。
―楽しみ方というのは、北海道の?
山下
北海道の楽しみ方なんですけど、大きく言うと生活の楽しみ方、旅の仕方ですね。客室には「北海道の遊び方」っていう僕の主観のガイドブックを置いてます。でも載せている場所に行ってほしいんじゃないんです。その道中にいいなと思う場所があったら、そこに時間を割いてほしい。僕が紹介した所はまた次でいいからって。どこか目的地に行く時にカーナビを使うとどうしても途中には目が向かないし、ガイドブックを見るとそこに載っている所をなぞる旅になっちゃう。そうじゃなくて、この辺で自分だけの景色を見つけに行ってみてって。
―お客さんが自分で自分の好きそうな場所を探すためのヒント集ということですね。
山下
そうですね。僕自身も宿の休みをちょっと増やして、最初の、この辺を遊び歩いていた頃みたいに、普通に知床に遊びに行ったり斜里岳に登りに行ったりする時間を作りたいと思ってます。あと…お客さんと「合宿」的なのものをやりたいんですよね。食事は全部自炊か外食にして、お客さんと一緒に遊びに行く。
―宿業の負担を少し減らして、山下さんがお客さんと一緒に遊ぶプランですね。
山下
バイクだったら、斜里岳1周ツーリングをオンロード編、オフロード編やるとか。あと釣り好きな人を集めたり。…結局ガイドしちゃうと思うし、夕食も作っちゃうと思うんだけどね…(笑)。
―そこでまたがんばっちゃう。
山下
たぶん不器用なんですよね。もう少し器用にやればいいんですけど、喜ばれるものを全部やっちゃおうとするから。以前は釣りガイドを有料でしていたんですよ。でもあまりにも大変で、僕が楽しくない。まず前の日に釣れる場所を確認しに行くんですよ。竿を振って魚がいるのを確認したら、魚が針にかからないようにして帰ってくる。で、次の日にお客さんを連れて行って、ここで釣りをしてくださいって。自分が釣りしたくなっちゃうから、ガイドする時は自分の竿は持っていかないようにしてました。
―そこまでやるんですね。
山下
そこまでしないとガイド業はお金取れないです。でもがんばりすぎないで、ひと呼吸おいて、次に進むために違う方法を考えよう。…まぁ宿のほうは一応10年くらい前から軌道には乗っているし、北海道でこういう宿をやるっていう目標はほぼ達成できた。だから次の目標を考えたいですね。今はどちらかというとまちづくりのほうに力を入れていて、観光協会の仕事をしたり、町の観光振興計画策定委員会のメンバーにもなっています。町の過疎化に少しでも歯止めをかけて活気を取り戻したいんです。斜里岳登山道の整備計画を立てたり、
―どうしてもお隣の斜里町に目が行きがちですが、清里町にもいい所がたくさんありますよね。
山下
清里町ってまだまだ開拓の余地があるんですよ。知床はほぼ塗りつくされた絵なんですけど、清里町は白い画用紙。この景色ときれいな水。静けさ。あと知床や摩周湖といった遊ぶ場所が近いこと。素地はあるんです。住むにはすごくいい所です。
―畑の景色も美しいし。
山下
今、町と観光協会で農業体験を含むグリーンツーリズムを立ち上げていますよ。農家の若手といろいろ考えています。観光の仕事は宿のほうにもフィードバックできるし。…やりたいことはいっぱいありますね。
2020.5.26
文・市村雅代