「山菜も木の実もすぐそこに。
自然が豊かっていいですよね」
LAPLAND
石田一彦さん | 広島県出身。中学時代、友達に誘われてアマチュア無線をはじめ、高校は電気科で電気系の専門学校に進学し仕事も電気系、と「人生ここに来るまでずーっと電気漬け」。ユースホステルに泊まるようになるとアウトドアにも興味を持ちはじめ「BE-PAL」は創刊当時から愛読。高機能素材を用いたグッズは40年ほど前から使用している。湖好きで、1992年に支笏湖畔にて開業。 |
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仕事の休みを利用した10日ほどの北海道自転車旅で、もっと長距離を走りたいという思いが募り、自転車での日本一周旅へ。立ち寄った北海道では、支笏湖畔のユースホステルのヘルパーとして働きつつ道内をまわり1年半を過ごす。その期間に宿を自身で開業することを決意。宿の場所として考えていた支笏湖畔は国立公園内で、営業許可をもらうまでに4年かかったがその間に資金を蓄え希望通りのログハウスを建てることができた。談話室の窓から支笏湖の湖面が見える好立地。宿の場所は、国道276号からモラップキャンプ場の案内に従って進むとわかりやすい。市営の樽前荘横の駐車場奥に建つ。
車での北海道旅から自転車旅、
そして自転車での日本一周の旅へ
ー窓からのこの支笏湖の眺め、最高ですよね。
石田
湖まで30mくらいしか離れてないからね。
―ちょっと気になっていることがあるんですけど…石田さんっていつも赤いTシャツ来てますよね。
石田
あ、わかっちゃった(笑)? 支笏湖のユースホステルでヘルパーをしてた時に、宿のグッズの赤いトレーナをもらったら「似合う」って言われて。それからトレードマークにしてるの。
―支笏湖でヘルパーをしていたことがあったんですね?
石田
うん。自転車で日本一周している時に。2年くらいかけて日本一周したんだけど、そのうちの1年半は支笏湖のユースにいて、休みをもらっては北海道をうろうろしてた。
―「日本一周」なのに、半分以上北海道にいたってことですね(笑)。学生時代ですか?
石田
ううん、社会人になってから。27歳の時だね。
―自転車はいつ頃から乗りはじめたんですか?
石田
中学の時から。通学用にギア付きのスポーツタイプの自転車を買ってもらって、高校時代は通学には使ってなかったけど、休みに遠乗りしてたから。広島県出身なんですけど、福山市なんで隣接してる岡山の方が行きやすいわけですよ。あの辺だと一番大きな街が倉敷。福山からだと40キロくらいかな。だからよく自転車で遊びに行ってました。その時はほとんど日帰りの旅。
―泊まりで旅に行くようになったのはいつ頃なんですか?
石田
高校3年くらいの時に友達に「ユースに行こうよ」って誘われて。「ユースってなぁに?」って(笑)。その時は岡山の蒜山(ひるぜん)のユースに。それは自転車じゃなくて国鉄(当時)で行きましたけどね。
―じゃあ高校時代は自転車では日帰りの旅をしつつ、ユースに泊まるようにもなったと。
石田
そうですね。でも進学で東京に出てから自転車はしばらくは乗ってなかったね。就職してから2、3年して、ちょっと余裕ができてから旅用のオーダーメイドの自転車を買ったって感じかな。カメラが趣味だったんで一眼レフのカメラの方を先に買いました。
―遠出するようになったのはどういうきっかけだったんですか?
石田
自転車が手に入ったから、どこかに行こうかってことになって。最初は当時住んでいた埼玉あたりをうろうろして。富士五湖もひとりで行った記憶あるなぁ。ただ自転車旅はその辺で1回終わってしまったんです。車に乗っけてくれる友達ができたんで(笑)。東北に行ったり松阪牛食べるためだけに三重に出かけたり、日本中を股にかけて遊んでましたね。その人、2社目の会社の先輩なんですけど、席が隣だったんで話しているうちに「北海道行ったことある?」「ない」「今度行く?」「行く!」ってなって。それではじめて北海道に来たのが確か1979年。小樽に上陸して真っすぐ北上っていうパターンで、最初に泊まったのが豊富温泉のユースだったかな。あとは摩周湖とか主な観光地をまわって簡単にくるっと1周はしたと思うんだけど。
ー王道コースですね。
石田
それが、当時まだドラマ「北の国から」がはじまっていなくて有名じゃなかった富良野にもなぜか寄ったんですよね。泊まった民宿の人に「この辺で見るものありますか」って聞いたら。「何もないんだよね、学校の校庭にある『北海道のへそ』の記念碑でも見に行ってみな」って。
―あはは。今のにぎわいからは考えられないですね。
石田
そうそう。こんなに有名になるなんて思ってもみなかった(笑)。北海道はその後も夏に2回、その時一緒に来た人と車で行きました。そのうち、「やっぱり北海道を自転車で走りたいな」と思いはじめて。3回目に車で北海道に来た時に、次は自転車で来ようって決めて。その年の秋に自転車で来たんですよ。
―夏に車で来た直後ですよね。その時はどこをまわったんですか?
石田
道北がメインでしたけど10日くらいしか日数がないからほとんどまわってない。その中で朱鞠内湖(幌加内町)が気に入ってね。ダム湖なんですけど、渇水期になるとダムを造る時に切った切り株が水面から出てくるんですよ。泊まった宿で、今なら見られると思うよって言われて。列車でしか行けない所だったんで、深名線(1995年廃線)に乗って行ったら、駅前からその景色が見えて。すごい!と思って。そんなんで3泊。
―10日くらいしかいられないうちの3泊って大きいですよね。
石田
大きいですよね、僕もまさかそんなにハマると思わなかったですよ。同じ宿に女の子もいて一緒に遊んだりしたからかな(笑)。
―じゃあ最初の北海道自転車旅はメインが朱鞠内だったんですね。
石田
そういうことになりますね。この時に確か支笏湖のユースを知ったんです。ジンギスカンが食べられる宿ってことで。当時は毎日ジンギスカンを出す宿だったんですよ。
ー最初の自転車旅で行ってたんですね。
石田
その後、2回北海道には自転車で来てるんですよね。でもそんなに長く休めないから、長距離走れない。行き帰りの移動でも4日間ぐらい取られますから。だから道北メインとか、大雪エリアメインとかになっちゃう。
―エリアを絞らざるを得ない。
石田
だから、もっと長距離走りたいっていう思いが芽生えてきた。で日本一周やりたいって。マンガ「サイクル野郎」の影響もありますね。高校生の時に読んでから、日本一周をやってみたいっていう思いがどこかにあったんです。
―当時、影響を受けた人は多かったみたいですね。
石田
多いんですよ、本当に。実際日本一周の旅で出会った人に、なんで旅に出たのって聞いたら、「サイクル野郎」を読んでっていう人結構いましたもん。
―はは。
石田
で、会社に日本一周の旅に出たいから休みくれって言ったら、どのくらい休みが欲しいんだって言われて。いろんな本とかを参考に、半年って言ったら、「頑張って1か月まで。レポートを出せば2か月休んでいい」って言われたけど、2か月じゃあ日本一周無理だから、仕事辞めまーすって言って辞めたの。
―あはは。それが27歳の時なんですね。
日本一周中の北海道滞在で
宿開業への淡い思いが決意に
石田
会社は3月末に辞めて5月3日に出発。日帰り旅の時でもカメラは持っていってたんで、この時も一眼レフとレンズ3、4本持っていきました。
―何を撮影していたんですか?
石田
主に景色ですね。人はあんまり撮っていませんでした。リバーサル(ポジフィルム)で撮影してたんで、焼き増しがネガフィルムよりも高いんですよ。ユースに泊まったりするとみんなで写真を撮って送りあったりしてましたけど、「これはプリントするのが高いから、撮るけど送らないよ」って言ったらみんなからケチだなお前とか言われて(笑)。それで、途中からはコンパクトカメラも持ち歩いて、人はそっちで撮るようにしていました。
―あはは。旅先で撮影した写真をぜひ拝見したいです!
石田
それが…しまい込んじゃって。デジタル変換したいとは思っているんですよね。ビフォーアフターじゃないけど、スマホにその写真を入れて旅先で昔の様子と今を見比べられるしね。
―じゃあ後日、写真を整理した際にはぜひ! 日本一周の旅はまず南北どちらに向かったんですか?
石田
最初は南の方へ。みんな最初は北に向かうんですよ。でも僕は北海道に何回か行って知ってるから、最初に北に向かったら北海道からは出られないなと思ったんです。それで先に南をまわったんです。途中、四国で鹿児島から来ている人に会って、鹿児島に来たら寄ってって言われて住所交換してね。で7月に鹿児島に行ったら、バイトあるんだけどやる?って言われて、2か月いちゃった。
―えー!
石田
お金がなくなっちゃって、沖縄にも行けないし…と思っていたらバイトがあったから。最初からお金がなくなったらバイトしようと思っていたんで。
―結果として鹿児島くらいで資金が尽きたと。最初はどれくらいで旅を終えようと思っていたんですか?
石田
まぁ1年ぐらいとは思ってましたよ。
―北海道には何月ごろに着く予定で?
石田
雪が降る前に着かなきゃとは思ってましたけどね。
―5月に埼玉を出て7月に鹿児島に着いているペースを考えると、あまりのんびりもできない気がしますが…この時のバイトは?
石田
居酒屋というか飲食店です。ライブもやるような。で、毎日最初にしていたのが焼酎のお湯割り作り。作っておいてそれを日本酒のモッキリみたいな感じでお客さんに出すの。特別暑い日なんかは冷たいのを作っていましたけど、基本はお湯割り。
―焼酎というところが、さすが九州ですね。
石田
仕事は夕方から0時ぐらいまでだったから、昼間は合間を見て市内をブラブラしたり。ただね、桜島の火山灰が降ってくるんです。風向きの問題で夏は特に市内に降るんですよ。もう自転車に乗ってると口の中がガジガジになるくらい。北海道の除雪車じゃないけど、灰を掃除する車が出て。鹿児島はいい街だなと思ったけど、火山灰は大変だったね。
―じゃあ自転車で遠出するって感じじゃなかったのかな。
石田
地元の人と仲良くなったんで、あっちこっちに車で連れて行ってもらいましたね。みんなで海水浴行ったり、温泉に行ったり。そのうちに竹やぶで覆われた山を持っている人と知り合いになって。竹で廃屋を直して住もうと思ってるんだけど、それを手伝ってくれないかって言われて。そこに寝泊まりしながら修理してました。
―なんだか楽しそうなお誘いですね~。
石田
竹を割って床を張ったり、ひさしをつくったり。で、夜は知り合いが集まってくるんですよ。だからそこで宴会したり、トンコツ鍋作ったり。その仲間に、北海道のユースでヘルパーをしたことがある人が多かったこともあって、鹿児島にいても北海道の話で盛り上がるっていう(笑)。すごく楽しくてついつい…。2か月があっという間に過ぎちゃった。
―逆によくそのまま居付きませんでしたね。
石田
日本一周中だから。はは。
―そうでしたね(笑)。でもそれだけ楽しむと鹿児島を離れがたいですね。
石田
そうですね。でももう9月になってて、このままだと雪が降るまでに北海道にたどり着けない!って大慌てで。あはは。
―目が覚めた(笑)。
石田
そうそう、目が覚めた。で日本海沿いに大急ぎでずーっと北上して。
―山陰、北陸、東北エリアはどうでしたか?
石田
申し訳ないですけど、日本海側は一気に北上。お金もないから駅寝や野宿だったし。
―あれ? 鹿児島で働いてお金が貯まったのでは?
石田
そんなには貯まらなかったですね(笑)。
―あはは。北海道には何月ぐらいに着いたんですか?
石田
10月下旬かな。ほとんど雪が降るころです。
―もう自転車に乗れない季節になっちゃってるじゃないですか。どうしたんですか?
石田
それで支笏湖のユースに行ったんです。そしたらヘルパーしない?って。それで「うん、やる」って。
ーお金もないし。
石田
お金もないし、行くところもないし。それで気づいたら1年半。あはは。でもずっとユースにいたわけじゃなくて、忙しくない時期は自転車で出かけたりしてたから居候みたいな感じ。冬にヘルパーとして働いた後、7、8月の忙しい時期はいてほしいけどそれ以外は好きにしていいからねって言われて。だから5、6月に道内をまわって、夏のヘルパーをして、次また9、10月は道内をまわったりしてたんです。で、また冬になるじゃないですか。また行くところないじゃないですか(笑)。だからまた支笏湖のユースに行って。
―あはは。
石田
支笏湖のユースは夏は250人くらい泊まる感じで、ヘルパーが無給じゃなくて日当1000円くらいはもらってましたからね。それもあってね。
―それでふた冬過ごしてしまったんですね。支笏湖のユースの良さはどんなところだったんですか?
石田
そうですね、最初はジンギスカン目当てでしたけど、行ったらすごくおもしろい宿で自分には合ってた。ペアレントさんもすごくいい人で。お客さんの食事はヘルパーが作っていたけど、10人くらいいたヘルパーの食事はペアレントさんが作ってくれたし。
―おもしろい宿だったっていうのはどういうところなんでしょう。
石田
ペアレントさんの息子さん、今のペアレントさんですけど、がスタッフとして働いていたんだけど、世界を放浪していたんで英語も流暢だし、山登りにも詳しくてすごく知識も豊富。そのしゃべりでホステラーさんを盛り上げていたんですよね。凄いなあって毎日感動してました。ペアレントだった彼のお母さんも親身になってくれて。まぁ北海道に知り合いができたってことですよ。
―だから1年半もいてしまったのかな。
石田
そこにいるうちに「いつか宿をやるぞ」みたいな考えが決まってくるわけですよ。その前、本州を走っていた時に雨で動けなくてユースでいろいろ考え事したり日記を書いたりしているうちに「もう帰っても社会復帰できないし…。宿をやってみたらいいかも」とは思っていて。
―その時頭にあったのはユースみたいな宿、ということですか?
石田
いや、まだ「とほ」の本はなくて「とほ宿」という言葉もなかったですけど、その前身となるような宿はありましたから。そういう規模の小さい宿です。道内をまわっていた時によく泊まりに行っていたのはそういう宿。当時のユースはどこもとにかく規模が大きくて、ヘルパーが拡声器を持って「ご飯ですよ~」とかお知らせするくらい。ちょっと学校みたいな感じだったかも。ヘルパーもたくさんいたから、自分がお客で行くと、誰がペアレントかわからないくらいだったし。
ーそんなに!
石田
大きいとどうしてもね。だから小規模の宿だったらひとりひとりとお話できるなって。僕が考えていたのはそういう宿でしたね。
―そうやってぼんやり「宿をやってみるのもいいなぁ」と思っていたのが、だんだん決意に変わっていくわけですね。
石田
でも、お金がないと何もできないと気づくんですよ。それで帰ってから1回社会復帰しました。帰りは5月に支笏湖を出て函館から東北をずーっと南下して。その時には宿をやるって決めていたから、いろんな宿に泊まってみたくて、テント泊はあまりしませんでしたね。有名で評判のいい所は、なんで評判がいいのかも知りたかったし。
―確かに。
石田
そんな感じで日本一周の旅は7月11日にゴールしました。
国立公園内で開業というハードルを越え
豊かな自然を満喫する日々
―2年以上に及んだ日本1周自転車旅が終了ですね。それから開業資金を貯めたわけですね。
石田
バブルだったんでお金を貯めるにはいい時代でしたよ。残業し放題。今だったらブラック企業って言われるかもしれないけど残業したら残業代が出たからね。お金貯めるにはよかった。
―旅を終えてどれくらいで宿をオープンしたんですか?
石田
5年くらい働いてましたね。ここ国立公園内じゃないですか。環境省から営業の許可が下りるのを待っていたんです。
―もう支笏湖で宿をやるって決めていたんですか?
石田
北海道で一番気に入った場所がオコタンペ湖(支笏湖から車で15分程度)だったんです。北海道の三大秘湖のひとつ。でもオコタンペ湖のまわりは特別保護地区で、建物を建てられませんからね。だから支笏湖が候補になったんです。でも支笏湖も支笏洞爺国立公園という国立公園の中で、営業するには環境省の許可が必要。土地も環境省(国)から借りる形でしか使えないんだけど、規制が厳しくて空いた借地はないって言われてしまって。
ーどうやって突破口を見つけたんですか?
石田
あきらめきれなくて情報を集めていたら、もっと湖に近い場所にすでに廃業している宿があってそこが建物を売ってくれそうだっていう話になったんです。実はその宿を含め、湖に近い場所にあったお店4、5軒には環境省からもっと内陸に移転するように通達があったんですけど、移転費用が出るわけではないのでその話が宙ぶらりんになっていたらしいんです。それで僕が廃業した宿を買って移転するなら環境省も営業の許可出すよ、みたいな話になって。それでようやく申請書を出すことができたんです。それから4年くらいかかったのかな、許可が出るまで。
―じゃあ書類上は石田さんがその宿を引き継いで、内陸部に移転したような形を取ったんですね。
石田
そういうことだね。
―この場所はどうやって決めたんですか?
石田
環境省から決められた場所。水辺に建つお店が移ってくるように5区画用意されていたんだけど、僕が最初に移ってきたからどこがいい?って聞かれて、ここって(笑)。支笏湖畔では湖から建物が見えないように、基本的に湖と建物の間に林をいれなさい、ということになってるんです。それで、用意されていた5区画も湖との間に林があるんだけど、ここの目の前だけ出入り口のために林が切れてるんだよね。
―じゃあ支笏湖畔で、ここみたいに建物の中から湖面が見える場所ってあまりないんですね! ログハウスにしたのは何かきっかけがあったんですか?
石田
日高にログハウスのとほ宿があって、そこに通っていたんです。ログハウス好きだったんですよ。だから許可待ちの間に北海道に来てはログハウスを見てまわってました。ログハウスの宿に泊まったり民家にも中を見せてくださいって行ったこともありますよ。
―そうなんですね!
石田
で、結局日高の宿の人にログハウスを建ててもらうことにして、図面も書いてもらって見積もりももらって。そうこうするうちに環境省の方から許可が出たんだけど、今度は半年以内に宿を建てなさいって。
―え!?
石田
半年!?って(笑)。お願いしてた日高の人に急いで造ってほしいって言ったら、今ほかで造ってるから半年以内には造れないって言われて。で、支笏湖畔にあったログハウスの喫茶店の店主さんに業者さんを紹介してもらって、急遽その会社にお願いすることになったんです。たまたま空いてて運が良かったんですよ。
―でも4年も待たされて、「もういいよ、他でやるよ」ってならなかったんですか。
石田
国立公園での営業許可は他県でもすごく時間がかかるって聞いていたから、とりあえず申請書を出した後も一応ほかの場所は見たりしてました。湖が好きなんで摩周湖周辺とか。でも許可が出るまで時間があったおかげでお金は貯まりましたからね。
―じゃあもっと早くに許可が出ていたら?
石田
もし次の年に許可が出ていたらこんなログハウスは建たなかったんじゃないかな。お金がなかったから(笑)。逆によかったです。
―あはは。でもバブルの時期だったら、建てるのにもお金がかかったんじゃないですか?
石田
かかりましたね。でも銀行がお金を借りてくださいって向こうから来る時代だったんですよ。だからうちも借りられたんです。
―そうやってバブルの恩恵を受けつつ、満を持して92年に開業。支笏湖にあるのに、どうして「LAPLAND」だったんですか? 北欧好きだったとか?
石田
ここ「モーラップ」地区でしょ。そのラップを取って。
―その「ラップ」!?
石田
宿の看板を、このログハウスを建てた会社がプレゼントしてくれたんだけど、そこにトナカイの絵が描いてあったから余計に北欧と関係あるみたいになっちゃって。後付けでそういうことに(笑)。その看板はもう壊れちゃったんだけどね。
―あはは。宿を建てる前に、人気のある宿を見てまわったということでしたが、何か参考にしたことや取り入れた部分はあるんですか?
石田
泊まった宿の間取り図はその場で簡単にイラストにしてましたよね、将来のために参考にするかもしれないからって。メモ程度のものでしたけど、それは結構参考にしました。
―例えばどんなところですか?
石田
キッチンから談話室が見えるとかね。一体感があるでしょ。
―確かに。割り当てられた場所ではありましたが、ここで宿をやってどうでしたか?
石田
夏場は観光客が多いですけど、ちょっとシーズンを過ぎれば静かになります。支笏湖は水上のモータースポーツが禁止なので、本当に静か。自然が豊かっていうのはいいですよね。春の山菜にしろ秋の木の実にしろ、宿から10m、20mの範囲でほとんどのものがある。山にわざわざ入らなくていい。お客さんから当日予約が入ったら、それから採ってくるっていう感じですよ。
―常に採れたて! 最高ですね。
2020.3.31
文・市村雅代