「旅の情報の重要性を実感。
旅人の求めに応じて伝えたい」
遊民宿 旅のあしあと
来栖嘉隆さん | 千葉県出身。高校生の頃は誘われればどこにでも顔を出していたため、付いたあだ名が「ダボハゼ」。「あの頃は『はい』か『イエス』しか返事がありませんでした」。両親はユースホステルで知り合って結婚したが、自身がユースの存在を意識したのは旅先で野宿を重ねた後だった。列車と車それぞれで47都道府県を制覇。その一方で海外旅行は未経験。 |
---|
高校時代に本格的に旅に出るようになるが、あえて事前に情報収集はしなかったため、「苦行」となることが多かった。旅がおもしろくなったのはユースホステルを知ってから。師匠とも言うべき宿主との出会いがあり、情報も手に入るように。何よりみんなで話して盛り上がれる環境にハマり通うようになる。その後ヘルパーとして働くが、そこでの失敗をきっかけに宿開業を思い立つ。宿の周囲には棚田などの田園風景が広がり、法然上人誕生の地に1193年に建立された誕生寺や、期限を設けて願掛けをする時切(とききり)稲荷神社などの寺社が点在している。
見知らぬ何かへの期待感
あえて情報なしで旅に出た高校時代
―近くに棚田や由緒あるお寺があって、まさに「日本のいなか」という感じの場所ですね~。ここで宿をはじめたのはどういういきさつだったんですか?
来栖
僕の場合、きっかけは大分のユースホステルなんです。
―そうだったんですね。
来栖
20歳くらいで、まだユースを使った旅をはじめたばかりの頃。友達と九州を旅行していた時に、熊本のユースで泊まり合わせた人から、大分のユースはオーナーの話がおもしろいし、観光案内もしてくれるからっておすすめされたんです。行ってみたら1月の中旬という閑散期だったこともあって少人数でのんびり話ができて「あ、こういう雰囲気なんだ、楽しいな」と思って。で春にも行って、次はGW、夏、11月の3連休、年末パーティー…合計年に6回行きました。
ーハマりすぎですね(笑)。お休みもよく取れましたね。
来栖
当時フリーターだったんです。バイトして、青春18きっぷが使える時にがっつり旅するみたいな感じでした。簿記の専門学校を中退して、人生の階段を転げ落ちたんで(笑)。
―簿記を勉強されていたんですね!
来栖
高校が商業科だったんですよ。計算だけは得意だったんです。
―経理系のお仕事をしようと思っていたんですか?
来栖
僕は簿記の資格を取ることが目的じゃなくて、大学に行きたかったんです。僕の通っていた専門学校は簿記1級が受かったら大学に編入できるシステムになっていて、それだったら自分の得意科目だけで大学に行けるって。でも当時1級の合格率が6%。普通は10%以上なんで歴代最低の時期にあたってしまい…。
―ただでさえ合格率低いのに…。
来栖
しかも僕、小学校1年生の頃にファミコンをはじめてからゲーム好きになって中学からはゲーセンに通うようになったんです。ヤンキーもオタクも関係なくみんなで切磋琢磨するような感じで(笑)当時eスポーツがあれば、かなりいい線行っていたと思います。専門学校1年の頃も365日ほとんど夜中まで遊んでいて。そんなんでうまくいくわけがないんです。あまりにも授業中に寝ているから、先生が僕をたたき起こす専用のハリセンがあったくらい。でも僕からすると寝る時間ここしかないんでって。
―あはは。じゃあ専門学校を辞めて、その先ですよね。
来栖
自分みたいなあほの気持ちがわかる教師になりたくて大学受験のために、1年フリーターをやりつつ予備校に通って受験勉強してたんですけど、いろいろあって結局半年弱で断念。それで目指すものが本当に何もなくなった。完全にフリーターです。
―この先どうしようっていう感じですね。
来栖
その頃に大分のユースに行ったんです。
―旅行はいつ頃からしていたんですか?
来栖
高校の頃から本格的に寝袋担いで、あちこちへ。大阪の祖母の家には小学3年の時からひとりで行ってはいましたけど。ひとりで行きたいって親に言って。
―そういう下地があったんですね。
来栖
高校1年の頃はゲーム一辺倒だったんですけど、高2になった時に同級生から「お前ゲームだけで楽しいのか」って言われて、確かに!って。それでゲームからだんだん離れていろんなことをやるようになった。そんな感じで青春18きっぷで出かけるようにもなって。東北行ったり…。
―北海道には上陸してなかったんですか?
来栖
まだ行ってませんでした。青春18きっぷが北海道でも使えるって知らなかった(笑)。
―えー(笑)! ガイドブックは使ってなかったんですか?
来栖
邪道だと思ってたんで。ありきたりの情報じゃつまんないなと思ったんですよ。自分の想像を超えた何かおもしろいことがあるんじゃないかと思って、あえて前もって情報を集めるのを避けたんです。そうしたら旅行と言うより苦行になった(笑)。ただ疲れに行ってた。人とも出会えない。うまいものも食べられない。家の近くのゲーセンで遊んでる方がましだって。
―旅先でゲーセンには行かなかったんですか?
来栖
行ってましたよ。
―それも旅の醍醐味でもあるのかなと思いますが。
来栖
そうですね。地方の人がどれくらいやれるのかなって、それは楽しかった。ただなかなか強い人に当たらなくて…。
―じゃあ楽しみもそこそこ。その割にちょくちょく行ってたんですよね。
来栖
何かしら発見したいなっていう好奇心はすごいあったんで。高校時代は長期の休みはバイトしたお金で旅行して、普段はゲーセンに通って、っていう生活でした。
―「苦行」はいつまで続いたんですか?
来栖
19歳か20歳の時に大阪の京橋の本屋さんでユースホステルの本を見つけたんです。その時は、近くにあったゲーセンに行くつもりだったんですけどまだ営業してなくて。それで時間つぶしに本屋さんへ。実は親がユースを使って旅をしていた人だったんで、話は聞いていたんです。それで本を見た時にこれじゃないか、と思って買って。
―いよいよ情報を入手できましたね。
来栖
その1週間後に友達3人と北海道旅行の予定があったんで、塩狩(和寒町)にあったユースに泊まってみました。
―塩狩のユースと言えばジンギスカンが有名でしたが。
来栖
僕ら素泊まりにしたんです、金ないからって。
―えぇ~~~。そもそもユースの夕食なら1000円くらいだったんじゃないですか?
来栖
1000円払う料理は僕にとってはA級グルメ(笑)。食費は1食500円程度、1日1500円以内におさまるように旅をしていたので。だからその時もジンギスカンの代わりに焼きそば弁当(北海道限定販売のカップ焼きそば)食ってました(笑)。一緒に行った友達2人には超怒られましたけど。で、その翌年の1月に泊まったのが大分のユースなんです。
―そうだったんですね。
来栖
大分のユースではオーナーが自作の周辺マップを作っていて、近所のおいしくて安いご飯屋さんとかを教えてくれたんです。そこで、「そういうこと宿の人が教えてくれるんや!」って知って。しかも教えてくれたお店が大正解だった。それからは宿の人にB級グルメを聞いて食べに行くっていうスタイルになったんです。情報の大切さを実感しましたね。
宿主になるという思いに火をつけた
ユースホステルでの「失敗」
―その宿に1年で6回も泊まりに行くくらいハマってしまったのであれば、ヘルパーとかにも興味を持つのかなと思いますが…。
来栖
はい。その翌年の3月に1か月やりました。でも本当は1年の予定だったんです…。まぁなめてましたね、仕事の内容を。あんなに厳しいと思ってなかった。オーナーからも「今のお前には無理だ。とりあえず落ち着くまで家に帰れ」って言われて。ただし、「席は残しておく」って。
―1年やる気で行ったのに…。
来栖
そもそもは1年間旅人として楽しませてもらったんで、その恩返しにと思ってヘルパーをしに行ったんです。なのにそんなふがいない結果で終わってしまって、恩を仇で返してる状況。ただその時にこのまま終わるのは嫌だ、自分もオーナーと同じことやりたいって、逆に燃えたんですよ。まだ、たき火みたいな小さな火でしたけど。
―失敗したことで逆に、自分で宿をやるっていう気持ちが芽生えたんですね。
来栖
はい。大分からの帰りに大阪の祖母の所に寄ってその話をしたら「そういう目標があるだけましやぞぉ」って言ってくれたんです。祖母は全く覚えていないんですけど(笑)、その言葉がすごく効いて。もしあの時ヘルパーを1年やれていたら、満足してそのまま終わっていたと思います。あの時失敗したから今がある。
―しんどい経験が弾みになりましたね。
来栖
旅の仲間にも、1年ヘルパーをやるって言っちゃってたんでかなり気まずかったですけどね。ヘルパーをクビになった直後、4月の上旬にその宿で知り合った仲間から飲み会やるから来いって連絡あって、「今の僕の状況知ってるよね?」って思ったんだけど(笑)「来なかったら絶交ね(ガチャッ)」って電話を切られて。もう行くしかない状況に。
―はは。
来栖
堂々と行くのもなんか違うなと思って、2時間ぐらい遅れてそろ~っと店に行ったら…プロ野球でサヨナラホームランを打った選手、あんな感じでもみくちゃにされたんです。お疲れさまーって。その時に「あぁ失敗してもこうやって迎えてくれる仲間がいるだな」って。
―優しく迎えてくれる人がいてよかったですね。
来栖
みんな気を遣ってくれて、その後も2週間に1回くらい集まって飲んでましたね。ただ、大分の宿に旅行者として通ってた頃からオーナーに「いつもうちに来てくれるのはうれしいけど、いろんな所を見て来い」って言われていたので、バイトもして。8月には青春18きっぷを3セット買って、関西から少しずつ北上していって北海道1周。この時にはじめて網走のとほ宿にも泊まりました。網走の後は一気に稚内へ。
―稚内は何か目的があったんですか?
来栖
礼文島のユースに行こうと思って。大分のユースで知り合った人がその宿の常連で、「君はきっとそこに合うからぜひ」って。
―はは。どうでしたか?
来栖
実は知り合いだらけであまり新鮮味がなく…。大分のユース仲間と行ってた飲み会が実はその礼文島のユースの飲み会だったこともあったんです。
―礼文のユースと言えば歌ったり踊ったりで有名ですが、じゃあ大分の宿も同じようなノリだったんですか?
来栖
全然違います。大分のユースは話すのがメインですね。それでもすごく楽しくて勢いがあって。その場を仕切っているのがオーナーだったんですよ…。で、その北海道の旅用に買った18きっぷが1セット余ったんで、九州に行って半年ぶりに大分のユースへ。
―ヘルパーの件があってからはじめてですよね。行きづらくなかったですか?
来栖
いや全然。オーナーもいつもどおり。「少しは落ち着いたか?」って。確かそれが第一声だったと思います。
―オーナーさんすごい。来栖さんも気まずいような気がするんですけど…。
来栖
全く。落ち着いたら来いって言われてたし、北海道に行ったりしていろいろ見て来たからって。…僕、小さい頃から、言ったことを実行に移さない人にすごくがっかりしてきたんですよね。それであんまり人を信用できない所があって。その時も、オーナーがまた来いって言ったから行く。そういう感じでした。そう言ったよね?っていう思いもあったと思います。で実際に行ってみたら、有言実行で迎えてくれて。
―そうだったんですね。
来栖
でその後、年末にも行ったんですけど、その時はお客で行ったのにヘルパー以上に働いて…。
―それは、ヘルパーの仕事を全うできなかった罪滅ぼし的な意味ですか?
来栖
いや、そうではないですね。僕が行く前にオーナーが「1か月で消えた伝説のヘルパーが来る」みたいに言っておいてくれたみたいで、100人くらいの定員の宿だったんですけど、そのお客さんたちがみんな僕に注目してくれちゃったんですよ。オーナーがそういう風に仕掛けてくれたみたいで。だから僕がやったのは盛り上げ役。ただ、僕がそうすることでスタッフの人も楽だったみたいで、帰る時に宿の人から「本当にありがとう、助かった」って言われて。くたくたでしたけど、僕がしたことに感謝してくれる人がいるって。この時に宿をやりたい、やるって本当に決めたんです。火がそれまでのたき火から、劫火のごとく燃え上がった。
―それが23、24歳の頃の話ですね?
来栖
20代は本当に考えてばっかり。失敗して痛い思いして。どうやって解決していけばいいんだろう、どう失敗しないようにすればいいんだろうということばっかり考えてました。交通費を考えて青春18きっぷを使った旅ばかりしてましたけど、電車に乗っている時間が長いじゃないですか。最初は音楽聴いたりしていてもだんだんやることがなくなる。たそがれるしかない(笑)。それで失敗したことを考えるんですよ。でもあのひとりの時間が、今考えるとすごくよかった。考えがまとめられて。
―考えていたのは大分でのヘルパーのことだったんですか?
来栖
それだけじゃないです。僕いっぱい失敗してるんで。受験も失敗してるし、小さい頃の習い事もいやで。親からもいつも逃げてるって言われた。だから宿をやるっていう自分でやりたいと思ったことぐらいからは逃げたくないと思ったんです。
自分の宿にいる時は
オーナーに徹して「旅人」を封印
―フリーターの生活はしばらく続いたんですか?
来栖
いや、北海道旅行をした頃は事務員をしていました。ぶっちゃけ親の会社なんですけど、3年だけ働かせてくれって頼んで。次に向かうための3年として。旅のスタイルも変わりました。休みが暦通りだったんで飛行機の割引プランを使って週末に2泊3日で旅行をするような。あきこと付き合いはじめたのもこの頃で、一緒に行くのも飛行機の旅ばっかりでした。
あきこ
11月に友達のバースデー割の航空券を使った旅ではじめて「小さな旅の博物館(ちい旅)」(小樽市)に行ったんです。
来栖
ユースで知り合った人たちから「とほ宿」の話も聞いていたし、網走で行ったとほ宿のことはいい思い出だったので、実はとほ本も買ってたんですよ。北海道に行くことになったので、とほ宿は北海道に多いしって本を見ていたら「ちい旅」のページに「オーンズスキー場まで送迎」って書いてあったんです。僕それを「オールシーズン送迎」って勘違いして、1年中いろんな所に送迎してくれるのかと思って泊まることに(笑)。
―壮大な勘違いですね。
来栖
ある意味この勘違いのおかげで「とほネットワーク」に入ることになった。
―はは。
来栖
でもワンワン(宿主の遠藤毅さん)もおもしろいし、全然違う場所だけど、大分のユースと雰囲気が似てるなって感じたこともあって、また来ようって。実際その後何回も行ってるし、ほかのとほ宿に行くきっかけにもなったと思います。
―そうやっておふたりでもあちこちに行ったりして、ご結婚はいつ頃だったんですか?
来栖
知り合って3年後。3年はしっかり付き合わないと、と思ってたんで。付き合っている時に一応宿をやりたいってことは話して。
あきこ
結婚してからユース協会の職員になったんだよね。
来栖
経験を積んでからどこかの宿を委託されればいいなぁって感じで。それで1週間くらい研修を受けることになったんですけど…その研修中に、大分のユースが突然閉めることになったっていう連絡を受けて。
―え!
来栖
最悪のタイミングですよ。僕が今から同じ道に進もうとしたところで…。その研修が終わったらそのまま大分に行って話を聞いてもらおうと思ってたのに。その日の夜はずっと泣いてました。冗談じゃないって。でも逆にハラが決まったと言うか。オーナーはいつも、宿をやってる時はオレは宿にいるって言ってたんですよ。だから辞めたってことは出かけられる。自分が宿をやったら来てくれるって事だよねって。
―そうですね。
来栖
それをモチベーションに。あとヘルパーの時に恩返しできなかったので、今度は自分が頑張ってちゃんと宿をやるよって。それで切り替えて次の日には普通に講義を受けてました。僕の中ではもう自分が成長することしか考えてなかったんで、やりきれたんだと思います。
―じゃあ研修後は協会の職員として働いていたんですか?
来栖
新潟のユースに配属になって、そこのオーナーの指示のもと、夫婦で働いていました。でも、そこが次の年の4月につぶれてしまって。それで僕たちも協会を辞めることに。いろいろあったんで、「ちい旅」に行ってグチってたら、ワンワンが「宿をやりたいんだったら、文句ばっかり言ってないで先のこと考えろ」って言ってくれて。
―その通りですね。
来栖
はい。本当は思いっきりグチを言いたかったんですけど(笑)。で貯金して自分で宿をやろうと。そこからはトラックの運転手をしてお金を貯めることにしたんです。運転が好きだったので。
―この場所はどうやって探したんですか?
来栖
僕は絶対関西エリアでやりたかったんです。母親が大阪出身のせいか自分も関西ノリで小さい頃からずっと大阪に住みたかったし、関西人に「有言実行」の人が多いように感じていたので。大阪でも探して1軒いいなっていう物件があったんですけど、東京で開催された中国地方のIターンフェアで話を聞いたら岡山県もいいなって。それで9月に岡山をレンタカーで1周してみたんです。実はその時、大きな台風の翌日だったんですけど岡山は川の色が変わってるくらいでほとんど被害がなくて。災害が少ないのはいいなと思ってそこから岡山周辺をメインに考えるようになりました。範囲は播州赤穂から福山あたりまでの雪の降らない所。雪国でのユース運営に携わって、雪が降る所での宿経営は絶対に無理だと思ったので。
―岡山県内にいい物件があってよかったですね。
来栖
実はここに決まるまで2年かかってるんですよ。決まりかけても、住むのはいいけど民宿はやめてくれって言われてしまったり。大阪の物件が、保健所の許可が下りない構造の建物だということが判明したりして段々切羽詰まってきて。
あきこ
そんな感じで困っていたら、登録していた空き家バンクのつてでまだ不動産屋さんにも教えてない物件があるんだけど良かったら行ってみるかって。
来栖
それがここなんです。
―ここは何が決め手だったんですか?
来栖
僕の条件が駅から歩いて20分以内。あとは近くに温泉がある事。その2つは絶対だったんです。ここは駅から徒歩約10分で、温泉も車で20分くらい。大家さんも、好きなようにしていいですよってすごい笑顔で言ってくれて。
あきこ
町が若者の移住と起業に対する補助をしてくれていて。それも移住の決め手。
来栖
そのおかげですごく助かりました。
あきこ
役場の人が、久米南町は見る所はあるんだけど泊まるところがなくてね、ぜひ民宿をつくってくれって言ってくれたり。
―おふたりとも全く馴染みのない土地ですけど、そのあたりは大丈夫でしたか?
来栖
相談に乗ってもらったオーナーたちにも友達を頼るなって言われていたし。それにこの町の人たちが受け入れてくれて。若い人が来たって。
あきこ
引っ越してすぐに町内会の役員をやることになったりね。
―そうだったんですね。ただ集客を考えると岡山市や倉敷市のほうがよかったのでは…。
来栖
観光地だから宿がある。それってただの常識じゃないですか。観光地じゃなくてもいい場所はある、それを見せたるわっていう感覚でした。あと、僕の中では都会の人がのんびりできるようにって考えていたので、岡山とか倉敷は違うかなって。
―じゃあここはぴったりですね。
来栖
岡山ってマスカットやモモで有名だし米もおいしいグルメ大国。この県北エリアから鳥取、島根方面はB級グルメの宝庫だし温泉もある。星も綺麗で、蛍も歩いて5分で見られる。棚田祭りとか、いなかならではの祭りもあるし。
―この地域の案内をすごく熱心にされてますよね。愛着持っているんだなって思います。
来栖
愛着…はどうかな。冷静に宿主として紹介しようと思ってます。ワンワンや大分のオーナーには、宿主と自分が旅人でいるっていうことは全然違う、ちゃんと「仕事」をしなさいってすごい言われました。だからこの場所は好きですけど、仕事なんですよ。
―ここで来栖さんが「旅人」になっちゃうと、お客さんと同じ目線で同じレベルの情報になっちゃうってことですか?
来栖
旅人とオーナーの境界線をちゃんとはっきりしろって。だからここにいる時は旅をしている時に比べて、あまりこだわりはないですね。お客さんの気持ちを考えないといけないから。大分の宿ではじめてオーナーに地元の情報を教えてもらってすごく助かったみたいに、僕も聞かれたらしっかり教えてあげたい。情報の大切さを身をもって知ってるので。でも、愛着を持ちはじめるとこだわりが生まれて、冷静になれなくなっちゃう。自分があんまりお客さんにアツく語ったらダメだなとか、40歳を過ぎてからはなおさら感じますね。いまだに日々勉強です。宿をはじめて7年目ですけどまだまだ足りないなって。
―そもそものきっかけはヘルパーをクビになったことでしたけど、今のモチベーションはなんですか?
来栖
やっぱり人との一期一会ですね。楽しく話せて色々な所を案内できて。教えるの好きなんで(笑)。それでいつかは自分みたいに、この仕事をやりたいんですっていう人が現れてくれたらっていうのが僕の夢です。僕が引退するまでにそういう人がひとりでも来てくれればなって思っています。
2020.3.17
文・市村雅代