「旅人と話すうちに、自分が
井の中の蛙だと気が付いた」
遊・民宿 小さな旅の博物館
遠藤毅さん | 北海道出身。「ワンワン」の愛称は、ユースホステルでのヘルパー時代、犬に愚痴をこぼしていたのを目撃されたことで命名された。「犬としゃべれるのかい?って言われまして(笑)。僕としてはあまり広めたくない呼び名だったんだけど…」。知る人ぞ知る「円盤音頭」のベースはなんと幼稚園の踊り。ユースに泊まった幼稚園の先生から教えてもらった物を「ちょっと下品に」した。1986年に宿開業。趣味は館内の掃除とお酒(日本酒)。 |
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小学生の時に父親のカメラで鉄道を撮りはじめ、中学からはSLの姿を追いかけて道内をまわるようになった。大学時代にはSLの撮影でもお世話になっていたユースホステルのヘルパーに。当初は宿泊者とほとんど話ができなかったが、後年宿企画のツアーをまとめ、盛り上げる名物ヘルパーに。大学卒業後、通年でヘルパーを経験した後、小樽で宿を開業した。テラスには自作の五右衛門風呂があり、他の宿とのソフトボール大会なども実施。毎晩お酒で盛り上がる宿としても知られる。「自分が楽しみたいから『この指止まれ』って人を巻き込んでるだけ。子どもと一緒ですよ」。
SLがなくなる!という焦燥感から
写真を撮り歩いた中学高校時代
―ユースホステルでのヘルパー時代は、ワンワンさんがガイドをしていたツアーが大人気だったとか、伝説的なヘルパーだったという話をあちこちで聞きますよ。
ワンワン
そんなことはない(笑)。
―宿のHPでも紹介されていますが、小さい頃から鉄道好きでSLの撮影のためにあちこちまわりはじめたそうですね。ご出身は夕張市なんですよね?
ワンワン
そうです。汽笛の音を聞きながら育ったもんですから。おふくろが「あんたは夜泣きしても汽笛が聞こえたら泣き止んだ」とよく言ってました。
―じゃあ気が付いたら列車に心引かれるようになっていた、という感じですか。
ワンワン
そうですね。小さいうちに夕張から札幌に引っ越したんですけど、小学6年の頃には自転車で手稲(札幌市)あたりに行ってSLを撮影してました。親父が買ってきたカメラを拝借して。それが旅のはじまりかな。手稲の車両基地には夜行列車の車両が並んでいたんです。その行き先板に「釧路行」とか「網走行」とか書いてあるのを見ると見知らぬ土地へのあこがれや、あの列車に乗って遠くに行ってみたいとか、まだ見ぬSLに会ってみたいとかそういう思いが。それで中学になってからひとり旅をするようになって。
―そうだったんですね。
ワンワン
鉄道雑誌はちょこちょこ買って列車の写真は見ていたんですけど、当時道内で撮影された写真というと、札幌の近くのものはなくてオホーツクの流氷を背景にSLが走ってる写真とか。そういう写真を見て持っていた地図帳でこの辺かな~って探して、ここに行ったらどんな感じなんだろうって想像したりしてました。だから地図帳と時刻表と鉄道雑誌がバイブルみたいなもんでした。
―共通の趣味を分かち合える人はいたんですか?
ワンワン
同級生ではいなかったですね。旅先で出会った同趣味の、いわゆる「鉄ちゃん」って言われるような人たちはいました。今は「乗り鉄」であるとかに細分化されてますけど、あの頃は「撮り鉄」しかいなかったですよね。それにほぼほぼ…っていうか100%男子。
―あはは。みなさん年上ですよね?
ワンワン
ユースに泊まると大学のお兄さんお姉さんくらいの世代の人が多かったですよね。
―ユースに泊まるくらいの遠征をしていたんですね、中学生で!
ワンワン
そうですね、中学1年で稚内とか網走あたりに行ってました。
―ユースの存在はどうやって知ったんですか?
ワンワン
鉄道雑誌に駅の近くの宿が載っていて、当時2食付きで一番安く泊まれたのがユース。
―お金はどうしたんですか?
ワンワン
中学の時は新聞配達、高校の時は大工のアルバイトをしていたんです。一番お金がかかったのはカメラの機材とフィルム。あの当時フィルムが高価だったもんで、例えば1万円稼いでもフィルム代で7000円、とか。望遠レンズなんか買ったら一気に旅の資金が底をついて、周遊券の20日間をどうしのぐかってことになっちゃう。だから旅費は削れるだけ削って、宿には泊まらず夜行列車がほとんど。あと駅寝ですよね。
―ずーっとSLの写真を撮ってたんですか?
ワンワン
ずーっとSLです。違う形式とかファーストナンバー(最初に製造された一号機)を追いかけたりしていました。あとは鉄道雑誌に出てるような写真を見て、あんなふうに撮れたらいいなって。
―じゃあ季節も関係ありますね。
ワンワン
そう。
―じゃあそうやって四季折々あちこちへ。
ワンワン
そうですね。高校が私服だったんですよ。それで札幌駅のコインロッカーにカメラと三脚を常備して親には学校に行くって家を出て、そのまま札幌駅に行ってカメラバッグと三脚を拾って撮影に出かけてました。高校3年の年にSLが廃止されることが決まっていたので、焦りもあって…。
―確かに、もう見られなくなるとなったら学校に行ってる場合ではないか…。
ワンワン
運がよかったのか悪かったのか、札幌から日帰り圏内に最後のSLが集結してたんですよ。岩見沢とか夕張とか。それでついつい「モクモクしに行こうぜ」って。タバコじゃなく、違うモクモクね(笑)。大学受験の時も試験受けに行ってくるって言って、岩見沢駅で「モクモク」してました。
―受験当日!?
ワンワン
家に帰ったら母親からどうだったって聞かれて、「うーん難しかったからな~、ちょっと自信ないな~」って。自信も何も、受けてないんだから(笑)!
―名前すら書いてない(笑)。
ワンワン
そうそう。それで一浪、という人生になったわけです…(笑)。
―そのことは親御さんには言ったんですか?
ワンワン
まだ告白してないです…(笑)。
盛り上げ役に変身した
ユースのヘルパー時代
―SLの撮影のためにユースを利用していたのが、いつのまにかユースや旅のほうに重心が移っていったわけですよね?
ワンワン
斜里のユースとの出会いが一番大きいですね。SLの撮影中に一番お世話になったのが斜里にあったユース。食堂のばあちゃんが僕らにあんまりお金がないのを知ってて、「あんたたちお腹空いてるんでしょ」って、お昼にでっかいおにぎり2個持たせてくれたんです。駅の裏っていう立地の良さもあったんですけど、斜里方面に行く時はお金に余裕があれば泊まってました。
―それは高校時代のことですね?
ワンワン
そうですね。で、高校3年の時にSLがなくなって、僕は大学を落ちて。ただ同趣味の人たちは、「最後まで走ってた北海道ならまだあるんじゃないか」みたいな感じで、かつてSLを撮影していた場所になんとなく集まってたんですよ。そこで「札幌の遠藤、大学落ちて浪人になったみたいよ」っていう話になって「呼ぼうぜ」って。
―おとなしく勉強させてあげてください(笑)!
ワンワン
それで呼ばれたのがまた斜里のユース(笑)。でももうSLも走ってないから、みんな手持無沙汰で宿で昔話をしていたら、ペアレントから暇だったらヘルパーやれって。それで夏はヘルパーをすることになって。
―夏は受験の天王山、ですよ!
ワンワン
それで2浪目っていう…(笑)。
―えーっ!!!
ワンワン
わかりやすいでしょ。
―やっていることと結果は結びついていますね…(笑)。
ワンワン
さすがに2浪目は仲間たちも、次は大学に受かってから来いって。それで無事に大学に受かりました。
―よかったです!
ワンワン
大学時代の長い休みは、ほぼ斜里のユースでヘルパーをやってるって感じでしたね。
―それだけ学生の間ヘルパーをしていたというのは、宿業自体に何か興味があったんですかね?
ワンワン
どうかな…。ただ、高校が男子校だったんですよ。で、雰囲気は鉄ちゃんでしょ。でもユースにはすごく女子がいるんだよね。だから女友達ができるんじゃないかな? みたいな感じ(笑)。
―モチベーションとしては十分ですね(笑)。
ワンワン
ところが実際には予約の往復はがきへの返信書きとか宿泊者のカードにスタンプを押す仕事で事務所にこもってて、そんな出会いもあったもんじゃない。ギターが弾ける人とかおしゃべりが得意な人は女性客からも声をかけられたり、ちょっとした旅の相談を持ちかけられたりしてたみたいですけど、僕には一切なし!
―あはは。
ワンワン
ただ鉄道好きでしょ。頭の中に時刻表は入ってるんですよ。だから列車の時刻だけは聞かれました。「ここから函館行きたいの? そしたら何時何分の汽車に乗って札幌で乗り換えて何時何分のに乗って」とかって。…ただそれをひと通り話したら、はい、さようなら。もうちょっと、「どこの出身ですか?」とか「どこの大学ですか?」とかないのかなって。たぶんこっちも緊張して淡々と答えていたんでしょうね。「女子としゃべった~!」みたいな感じで。
―あはは。今のワンワンさんからは想像できませんが…。スタンプ係、時刻表係を卒業してもう少しお客様に近い感じになったのはどの辺からなんですか?
ワンワン
1年目終わったくらいかな。夏は300人くらい泊まる大きな宿だったけど、流氷のシーズンはそんなにお客さんも多くなかったから密に触れ合えた。当時、冬の北海道に興味を持つような人はちょっと洗練されたような人たちっていう印象で話もおもしろくて。それくらいからですかね、お客さんと話せるようになったのは。本当は先輩ヘルパーさんみたいにギターで盛り上げたかったんですよ。だからギターも自腹で買ったんですけど…Fコードが弾けなかった…(笑)。
ーはは。じゃあギターがうまくなる道はあきらめて…。
ワンワン
足りない所は別の物が補ってくれるっていうじゃないですか。指先は発達してないけど口先は発達しちゃったって感じですね。声が大きかったから「お囃子係」みたいな感じ。歌に合いの手を入れたり。それで物足りなかったらほうきを首からぶら下げて「オレのギターは1385弦だぜ」とかなんとかやったり。前座みたいなもんですよ。
―はは。場を温める役ですね。…でもそれまでの人前に出られない感じから、急に変わりましたね。
ワンワン
最初は先輩がやってるのを見て、こういうノリでやればいいんだって。言葉をちょっといじればおもしろくなるんだ、みたいな感じで。
―何かが開花しましたね。
ワンワン
開花しました。
ー担当されていたユースのツアーはどんなものだったんですか?
ワンワン
「知床コース」と「湖コース」を奇数日、偶数日で分けてそれぞれ丸一日かけてやってました。最初はマイクロバスを使っていたけど、僕が大学1年でヘルパーに来た時はもう大型バスでしたね。
―そのガイドをワンワンさんがしていた、と。ヘルパーさんってそういう仕事もあるんですね。
ワンワン
斜里のユースが特殊だったんだと思います。最初はバスガイドさんを乗せてたんですけど、そのうちヘルパーでいいんじゃないってことになって。「知床コース」は知床大橋まで行って、カムイワッカの滝の温泉に男女交代で入って(当時。現在は水温30度程度)それから乙女の涙、ウトロに移動して釣り船に乗って、カムイワッカの滝が見えるあたりで釣りをして帰ってくる。
―盛りだくさんの内容ですね!
ワンワン
「湖コース」は、裏摩周からオンネトーに行ってメインが屈斜路湖でボートに乗ること。そこで男女がペアになるようにして(笑)。
―はは。盛り上がりますね~。ガイドをやる時に心掛けていたことはありますか?
ワンワン
楽しく笑いを交えてつつ教養があるようにってことですかね。「北海道の木にはトドマツとエゾマツがあります。皆さん枝ぶりを見てください、天までトドけと枝ぶりを上げているのがトドマツ。『もうエーゾー』っと枝ぶりをさげているのがエゾマツでございます」って。これほんと。
―おぉ、豆知識!
ワンワン
そういう話術は鍛えられましたね。
―ヘルパー業に足を踏み入れたのは、女の子との出会いの可能性を感じてということでしたが、4年間そのモチベーションで働いていたんですか?
ワンワン
だいたいそうです(笑)。その集大成があの…こちらにいる奥さんです。
―あぁ、そうでしたか! 久美子さんはお客様としてユースに泊まっていたんですか?
久美子
最初は旅人で、その後ヘルパーに。
ワンワン
まぁ出世街道ですよね。…落ちた人生とも言いますけど…。
久美子
そう、そこから間違いがはじまった、はは。
ーヘルパーの先輩だったワンワンさんはどう見えたんですか?
久美子
とにかく目立ってましたよ! 目立つの命って感じだったもんね。
ワンワン
いや、目立つの命ではない…。席位置がそうだっただけ…。
―声は大きかったそうですが。
久美子
いや、それだけじゃない、態度も大きかったですよ。
―あはは。
ワンワン
それ…ちょっと…あんまり…。
―重要な証言ですよ(笑)! 久美子さん自身は宿をやることは考えていたんですか?
久美子
最初は考えてなかったけど結婚するってなった時に考えたのかな。宿をやりたいっていうのは結婚する前から言ってたからね。
―ワンワンさんが宿業自体におもしろ味を感じてきたのはどの辺からなんですか?
ワンワン
それまでは鉄道という同じ趣味の仲間とだけでやってきたけど、ユースって全く別個の世界じゃないですか。
ーいろんな人が来ますからね。
ワンワン
カメラを持っている人がいたから、僕と同じような鉄っちゃんなのかと思って話しかけたら「いや汽車は撮らないです、風景を撮ってるんです」とか言われたり。旅自体が趣味の人もいれば釣りが目的の人もいる。今まで見たこともなかったバイクツーリングライダーさんとか自転車の旅の人とかもいて。すごい人間がいるんだなって。僕なんかは結局井の中の蛙で、鉄道のことしか知らなかったんだって。ユースのヘルパーをやることによって少しずつ見聞が広まって、なんだオレの生きていた世界は実はこんなちっぽけじゃん、みたいな感じで。
―すごく大きいなターニングポイントになりましたね…。
宿泊客同士が交流できるように、と
小規模の宿を開業
―生まれ育った場所を離れて大学に進学した際にも見聞は広がったのかなと思うんですけど、それはいかがでしたか。
ワンワン
神奈川の大学だったんですけど、「内地暑い…」くらいかな、大学進学で見聞が広がったのは。
―あはは。
ワンワン
大学にはほとんど行ってないです。ユースでヘルパーした後に旅に出て、たまには大学に行くかなって行ったら10日ぐらいでもう冬休みになっちゃうっていうくらいな感じで。
―はは。ちなみに何学部だったんですか。
ワンワン
広報学部広報学科って、マスコミ系の。
―じゃあ将来はそっちの道に進もうかなと思っていたんですか?
ワンワン
入学した時はね。でも1年もしないうちに挫折しました。遊んでばかりだったし。
―はは。卒業後はどうされたんですか?
ワンワン
実は1年間、横浜でカメラマンをやっていました。学校の卒業アルバムなんかもやったしスイミングスクールで泳いでる子どもたちの写真を撮ったり。あとは広告の物撮りとか。
―そんな時代があったんですね! じゃあ結果としてマスコミ系に進んだんですね。
ワンワン
大学での勉強とは全然関係ないんですけどね。当時は就職の選考が10月解禁だったんだけど冬休みもヘルパーに行ってたんですよ。で、帰ってきたら同級生はみんな「就職決まったよー」って。僕、学校では「長老」って呼ばれてたんだけど(笑)、「そう言えば、長老は決まったの?」って言われて、やべーな、とか思いながら「オレは全員の行く末が決まってから。順番があるだろ」って。
―順番で言うなら「長老」が先では…(笑)。
ワンワン
だよね(笑)。それで就職情報誌に「カメラマン募集」っていうのがあったから、とりあえず面接に行ったら「明日から来い」って言われて。それでお願いしますって。
―それでカメラマンに。
ワンワン
大学の入学式の時はユースでヘルパーをしてたし、卒業式の時はこの仕事の関係で蔵王(山形県)に出張に行ってました…。
―大学4年間、大学以外の所でいろいろやってましたね(笑)。
ワンワン
野外活動ですよ(笑)。
―結局1年でその仕事は辞められたんですね。
ワンワン
斜里のユースに通年いる「越冬隊」としてヘルパーをすることにしたんです。
―いつ頃からご自身で宿をやることを考えはじめたんですか?
ワンワン
大学4年生の頃にとほ宿の元祖のような、「ユース民宿」って呼ばれる小規模の旅人専用の宿がちょこちょこできてきたんですよ。普通の民家をちょっと直して宿にする、みたいな感じの。確か僕が越冬隊に入った頃に、ヘルパーの先輩も同じように自分で建物を直して宿をはじめて。自分で自分の城を建てるっておもしろいなと思ったんですよね。
―確かに!
ワンワン
自分の好きな通りに建物を変えて、なんか生き生きしてるんですよ。ユースだと協会もあるし、ヘルパーの立場だとペアレントさんに何事も聞いて進めないといけないじゃないですか。僕、トイレットペーパーを置くかどうかでペアレントさんと大喧嘩したことあるんですから。
―それは一体どういう…。
ワンワン
昔のユースは、トイレで使う紙は自分で持ってきなさいっていう取り決めだったんです。でも僕がヘルパーをしていた当時ですらトイレットペーパーがないユースは珍しかった。こんな宿ほかにないよ、付けようよって。
―そういう所から見ると「ユース民宿」はかなり自由にやってるように見えたんですね。
ワンワン
先輩の宿の改装のお手伝いをしたんですけど、秘密基地の屋根付き版みたいな感じの建物に気のあったメンバーが来たら、もう最強じゃないかって。
―ワクワクしますね~。
ワンワン
宿を自分でもはじめようかなって思った最大のきっかけはその宿だね。
―ずっと斜里でヘルパーをしていたのに、小樽の銭函ではじめることになったのはなぜなんですか?
ワンワン
SLの写真を撮ってた頃は、斜里岳とSLの絡みが一番好きだったんです。で、自分の宿も斜里岳の近くがいいなと思ったんですけども、その頃に子どもができて…。
―あ、越冬隊の頃にご結婚されたんですね。
ワンワン
越冬隊を2年やった後に結婚して1年くらい斜里に住んでたのかな。
久美子
斜里には産婦人科も小児科もなかったんですよ。私は横浜出身なんですけど、子どもができると、ちょっと住むにはきついかなって。
ワンワン
それで僕の実家のある札幌へ。
久美子
宿は札幌でもできなくないよねっていうことになって。
―じゃあ札幌に戻られて、近郊で場所を探したんですね?
ワンワン
そうです。
―どうやって銭函にたどり着いたんですか?
ワンワン
大工のバイトをしていた時の友達が住宅メーカーに勤めてたんで、どこかにいい土地ないかって相談したら、「ここいいべや」って。で「お、いいな」って決定。よく「銭函に思い入れがあるんですか?」って聞かれるんだけど、僕は特に(笑)。ゴルフ場が目の前にあったから、この開けた感じは変わらないだろうなっていうのはあったかな。
―じゃああっさり決まったんですね。
ワンワン
あっさり。
―持つべきものは友ですね~。それは札幌に移ってきてどれぐらいで見つけたんですか?
ワンワン
1年くらい?
久美子
経ってないんじゃない? 12月に私だけ札幌に移って、2月に子どもが生まれて。
ワンワン
僕は3月に札幌に戻って土地探して建物を建てて8月にはオープンしてるんで。
―早っ! ユース民宿という新しいジャンルの宿がきっかけだったということですが、ご自身はどういう宿にしようと思っていたんですか?
ワンワン
規模的には、10名ちょっとくらいで、みんなでいろんな話をしようっていう宿ですね。僕は鉄道の世界しか知らなかったのに、ヘルパー時代にいろんな人と会って話すことですごく世界が広がった。「小さな旅の博物館」っていう宿名にしたのは、旅に出て人と話すことによって自分の見聞が広がって。そうすることで自分が博物館みたいな人間になっていくんじゃないかって。
―共通点がない人同士でも同じ場所で集まって。
ワンワン
出身も年齢も違う人みんなで同じ話ができるのは旅の世界だけだし、そういう場所を提供している宿じゃないとできない。
―そうですね。そして、その空気を作ってるのが宿主の方だと思います。
ワンワン
それはとほ宿の宿主さんがみんな、自分たちがやらなくちゃいけないと思っていることだと思います。「皆さんご自由に」っていう宿ではなかなかそういう雰囲気にはならないですよね。
―空気づくりで心掛けていることってありますか
ワンワン
なんだろうな。まず人の話を聞く。あと引き出してあげる。
―なるほど。
ワンワン
あとは何かあった時に自分の引き出しを開けて…。旅に行ってみんなと話したことによって自分の引き出しも増えてくるじゃないですか。ただその引き出しを全部出しちゃうと、小うるさい親父になっちゃうので、そう思われない程度に(笑)。なかなかこれが難しい。
―はは。「ちい旅」と言えば毎晩の宴会を連想する人も多いと思いますが…。
ワンワン
毎晩、引き出しの開けあいです(笑)。
2020.1.21
文・市村雅代