「ここが北海道ファンになる
入口になればと思っています」
ニセコ旅物語
五十嵐英樹さん | 神奈川県出身。1993年宿開業。ニセコでの宿開業は高校時代から乗りはじめたバイク、社会人になってはじめたスキーを楽しめる環境、ということで決断。シーズンオフには1週間ほど全国にツーリングへ。「旅行者が全国から来てくれるのでいろんな情報が居ながらにして集まる。それを参考に行先を決めています」。バイクでの全都道府県制覇達成まではあと長崎と鹿児島の2県を残すのみ。 |
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ツーリングで北海道をまわったことをきっかけに、大学時代の長期の休みはほとんど宿のヘルパーとして過ごす。会社勤めを経て、結婚と同時にニセコ町で宿を開業。バイクには乗り続けていたが、40歳を過ぎてはじめた競技や安全講習会で改めて正しい乗り方、技術を身につけ、よりツーリングが楽しくなった。近年はももクロをはじめとするアーティストのライブに夫婦で出かけるように。若い人にいい旅をしてほしい、と29歳以下を対象にした割引あり。
ダートを走る冒険的要素と
人との交流が印象に残った北海道旅
―「ハンドル」好き宿主として、夏はバイク、冬はスノースクートを楽しまれてますよね。バイクはいつから乗っているんですか?
五十嵐
16歳で原付の免許を取ってから。大学2年生の時に250㏄のバイクを買って、それで、はじめて横浜から北海道にツーリングで来たんです。
―北海道を目指したのは何か理由があったんですか?
五十嵐
バイク雑誌に「北海道は天国だ」って書いてあったから(笑)。それで友達と1週間の予定で夏休みに来てみたんです。で、この手の旅人宿に泊まってみたら、かわいい女の子のヘルパーさんから声をかけられて。工業高校、工業大学という男の世界から来た僕にとっては、何ていいシステムなんだって。
―はは。
五十嵐
あまりにも衝撃的に楽しい1週間で、正直帰る時すごく悩んだんです。友達は社会人だったので休みが限られていましたけど、僕はまだ夏休みでしたから。
―で、どうしたんですか?
五十嵐
すっごく悩んで、結局友達と帰ることにしました。だけど、フェリーが出る時には涙ぐみましたね。
―衝撃的な楽しさというのが、女の子との出会いに凝縮されていたようなんですが…(笑)。
五十嵐
そんなことはない。…いやそれもあったけど(笑)、北海道には自分のスケールを超えた楽しさがあったんです。
―どういうことですか?
五十嵐
まずバイクで言うと、当時はまだダート(未舗装路)が多くて冒険的な要素があった。あと、人と話すことがこんなに楽しいっていうことをこの手の宿に泊まってはじめて気が付いた。
―そうだったんですね。
五十嵐
その北海道に対するお返し的な意味もあって、今この仕事をしています。「北海道楽しいから来てよ」っていう感じ。
―五十嵐さんはヘルパーの経験もあるとお聞きしています。
五十嵐
この時の旅行で、サロマ湖にある宿に泊まりに行ったんですけど、そこにかわいくて気持ちのいい対応をしてくれる女子ヘルパーさんがいて。冬は何をしてるのって聞いたら、「ここでヘルパーをしてる」って。それで、僕もその宿でヘルパーをすることにしたんです(笑)。
―シンプルな理由ですね(笑)。それでその女の子は本当に冬もいたんですか?
五十嵐
いました。だけど別の男の子と仲良くなって途中でいなくなりました(笑)。
―あはは。
五十嵐
でも僕は仕事をしている間にヘルパー自体がおもしろくなってきて。それで次の夏は浜中町の宿でヘルパーをすることにしたんです。
―夕食にお寿司が出る宿ですね。
五十嵐
春休みに北海道を国鉄の周遊券でまわっている時にその宿に泊まって。そこの宿主もサロマ湖の宿でヘルパーをした経験があったので、話しているうちに「夏においでよ」「じゃあ行きます」みたいな感じで。
―サロマ湖の宿ではほかのとほ宿主の方も何人かヘルパーをされていますよね。かなり仕事が大変だったとお聞きしています。
五十嵐
あぁそうですね。でもこんなもんだと思っていたから別に。楽しかったし。でも浜中町の宿のオーナーも、あそこの宿が耐えられたんならこいつは大丈夫だろうっていう感覚があったんでしょう。実際、結構厳しくて(笑)。
―はは。
五十嵐
でも、お客さんの前に立つ機会はくれたんです。夜、Tシャツとか宿のグッズを売るのは任されてました。ただ売るんじゃなくて、自分なりに口上を考えて売れ、と。
ーそうやって、自分の「色」を出すように教えてくれたんですね。
五十嵐
そんな感じで学生時代は、長い休みになると浜中町の宿でヘルパーをして、その前後で道内を旅するという感じでした。
―じゃあ2年生以降の大学時代の休みはもう北海道一色ですね。
五十嵐
大学時代は浜中の宿に捧げました(笑)。電気パーツを買ってラジオを作ったり、アマチュア無線をしていた暗~い電気系大学生が「見つけちゃった!」みたいな感じですよ。それでやってるうちにどんどんヘルパーがおもしろくなってきて。
―どういう所がおもしろかったんですか?
五十嵐
ヘルパーをやっている間だけ違う自分になれたんです。僕のようなカリスマ性のないヤツでもみんなと盛り上がったりして。ありがとうございますってお手紙もらったり、直接的に喜んでもらえる。ヘルパーを終えて横浜に帰ってからも100人以上集まってくれて飲み会をしたりとか。そういうのがあの頃は楽しくてしょうがなかったですね。
小さい頃からの夢だった職業から
「一度はやってみたい」と宿主に転身
―そうやって、学生時代はどっぷりヘルパー三昧。
五十嵐
他の宿に泊まったら、「オレだったらこうするんだけどな」っていうのも多少なりとも出てくるようになって。
―そのころから宿をやりたいと思っていたんですか?
五十嵐
大学を卒業する時に一瞬、悩みました。当時まだ美瑛がこんなに有名になってなくて、穴場だったんですね。それで美瑛でやってみようかなって。でも当然お金もないので。
―そうですね。
五十嵐
結局、昔からの夢だった仕事に就くことにしたんです。メーカーの電気回路設計士として働いていました。趣味が仕事になっちゃったんで会社は大好きで、夜中の1時2時まで働いたりして。だけど逆に休みは長くもらって夏と冬はバイクか車で北海道へ。
―その時は完全に旅行者として北海道をまわっていたんですか?
五十嵐
そうですね。社会人になってからは、とほ宿の「小さな旅の博物館」(小樽)にすごく行くようになりました。わんわんさん(宿主の遠藤毅さん)のカリスマ性に引かれて、ですかね。輝いてましたよ。わんわんさんだけじゃなくて、あの頃の宿のオーナーさんたちはみんな。ほかには負けないぞ、みたいな勢いで。その迫力に引かれるって言うかね。
―当時は今以上にみなさんアツかったようですね。そういう感じの生活はいくつまで?
五十嵐
28歳まで。それで仕事を辞めて北海道へ、ですね。
―大学を卒業する時にも宿をはじめることをちょっと考えたということでしたが…。
五十嵐
それが頭の片隅から消えていなかったんでしょうね。あと、ヘルパー時代から一緒に宿とレストランをやろうって夢を語り合っていた仲間がいたんですけど、彼の価値観が変わってしまって、やらないと言いはじめたんです。それで意地みたいなものはあったかな。
―じゃあオレはやるよと。
五十嵐
そうそう。失敗してでもいいから1回はやらないとなっていう。
―それが28歳くらいの時なんですね。
五十嵐
うちの奥さんと結婚したのと同時。
―えー!
五十嵐
「小さな旅の博物館」でヘルパーをしてた女の人が僕と同じ神奈川県の人だったので、地元で一緒に飲もうかって話になって。その時に、「同じ保育園で働いている若い子を連れて行ってあげる」って、連れて来られたのがうちの奥さんです。
―え~そうだったんですね。
五十嵐
だから「小さな旅の博物館」はある意味…。
―縁結びの神的な(笑)。でも奥さんは結婚と同時にまさかの北海道暮らしですよね。
五十嵐
23歳の時ですから。今のうちの娘と同じくらい。…かわいそうですね、ひどいですね(笑)。
―哉子さんはこういう宿に泊まったことはあったんですか?
哉子(かなこ)
なかったです。だから、宿をはじめる前にこの人がヘルパーをしていた浜中町の宿に1週間くらい行きました。ヘルパーというか、お客さんはこういう人たちで、みたいな雰囲気を知るために行ったという感じですね。
―この場所はどうやって見つけたんですか?
五十嵐
横浜の仕事を辞めて、最初は札幌近郊の会社に転職して働いていたんです。その時に、不動産屋さんのチラシに載ってたのかな。でもすごく魅力的だったかっていうとそうでもなかった。どちらかというと消去法的な感じでしたね。前に考えていた美瑛エリアは知り合いの宿がだんだんできてきちゃってたんでやめて、最初は小樽中心で探していたんですよ。「小さな旅の博物館」も近くにあるしって。でもここを見て、スキーもできるしバイクで走れるパノラマラインもある。それに物件が道路沿いだからまぁいいかなって。10年くらいほぼ空き家みたいな状態だったのでお化け屋敷でしたけどね。頭よりも高い草に囲まれて。
哉子
そう、お化け屋敷みたいだった。薄暗くて、屋根裏は獣が住んでた匂いがした。
―いや~(笑)。この建物がそうだったなんて…五十嵐さんが新築したのかと思っていました。
五十嵐
築40年くらいは経ってますよ。
―そうなんですね。
五十嵐
当時よくわからない自信があって、どこでやってもお客さんが来ると思ったんですよ。
―はは。そういう自信がないと宿の開業なんかできませんよね。
五十嵐
でもふたをあけたら冬に全然お客さんが来なくて。
―え! ニセコエリアはスキー客がいる冬の方が忙しいイメージですよね。開業は何月だったんですか?
五十嵐
10月に結婚して12月にオープン。でも最初の1年はスキーのお客さんがほとんど来てくれなくて夏の売り上げがほとんど。逆に夏は1年目から旅行者の友達が来てくれたんで結構にぎわってました。冬にお客さんが来るようになるまで5年くらいかかったよな。
哉子
そうだね。スキーブームがあったからね。それで常連さんが増えていって。まだ子どもがいなかったので、お客さんと一緒に洞爺湖の方に行ったりして遊んでました。
五十嵐
料理も今考えれば簡単な物だったから。最初の1、2年はほぼ手探りだったよね。
哉子
レパートリーも少なかったし。
―じゃあめちゃめちゃ腕を上げたんですね。夕ご飯の時、並んだ料理を見たお客さんから、「おー」って声が上がってましたよ。品数も多くおいしかったです!
哉子
そうなんですか? よかった(笑)。それなりの品数は出そうと思ってます。あとニセコ町の野菜はいっぱい出してあげたいなって。
五十嵐
「旅物語」の要素として、奥さんの「進化」は大きいです。何年目くらいからかな、激しく「進化」したのは。
哉子
いろいろな料理の本にはまって、それから作るのが楽しくなったんです。ただ趣味というほどではないですね。でも出来合いの物を出すのは気が引ける、自分で作らないと気がすまない。そういう感じです。
五十嵐
冬だと2、3週間泊まる人もいるんです。そうすると奥さんが頑張って日替わりのメニューを考えています。
―それはすごい! やらざるを得ない状況で日々鍛えられたと。
哉子
ほんとそうです。
五十嵐
日々バージョンアップが26年続いている感じ。
哉子
建物もね、いろいろああしたいこうしたいはあるけど、20年以上経っちゃった(笑)。
老若男女が集い楽しむライブ会場で
宿業に反映できるヒント探し
―北海道に来るきっかけになったバイクには今もまだ乗っていますよね。
五十嵐
バイクにはずーっと乗ってましたけど、40歳を過ぎてから「ジムカーナ」という競技に出会って、バイクの乗り方を再発見しました。いくつになっても勉強って大切ですね。
―ジムカーナは、既定のコースを走ってタイムを競う競技ですね。
五十嵐
操作の基本練習の延長の大会です。
―競技の映像を見ると、小回りとか、まさに教習所で習うような内容という感じです。
五十嵐
だからいくら速いバイクをチューニングしても勝てないんです。ヘタすると80㏄とか125㏄のバイクが勝っちゃったりする。
―ちゃんとバイクが操作できてないとタイムが出ない。
五十嵐
そう。オフロードの草レースもやっていたことがあるので、自分はある程度バイクの乗り方がうまいと思っていたんです。でも、ジムカーナにチャレンジしたら全然できなくて。「あなたはオートバイという物にちゃんと乗れていませんでした」ということを突き付けられた感じ。
ーそれはショックですね。
五十嵐
練習するうちに、バイクを設計した人が意図したとおりに乗るのが一番きれいに無理なく乗れるってわかってきた。サスペンションが固いから直そう、とか機械のほうをいじるんじゃなくて。それを知った上で道を走るとおもしろさが倍増したっていうか。バイクが楽しいって、さらに思いましたね。
―いいですね!
五十嵐
レースはA~Dのクラスに分けられていて、僕はDクラス。一応クラス優勝したこともあるんです。僕は競技ありきでやってるわけではなく、あくまでも町中を楽しく走るにはどうしたらいいかっていうバイクとの付き合い方。だから、まぁ納得いくレベルにはなったのかなって思っています。
―すばらしい!
五十嵐
天気のいい日は朝食前にお客さんと「朝練」と称してパノラマラインの方にツーリングに行くんだけど、ある程度ね、ピシッとスマートにバイクに乗る所は見てほしいってうのはあります。…そう言えば、「五十嵐さんって、昔教習所で働いていたらしい」っていううわさが流れたことがあって(笑)。
―あはは。具体的に乗り方をアドバイスをしていたんですか?
五十嵐
乗り方を教えてほしい、と泊まりに来てくれる人もいます。バイクの取りまわしがうまくいかないっていう女性とか。じゃあちょっと一緒に走ります? みたいな感じで練習っぽくしたり。
―それは、教習所にいたっていううわさが流れてもしょうがないですね(笑)。今は競技はされていないんですか?
五十嵐
今はほかの趣味があって。
―何をされているんですか?
五十嵐
ライブに行ってます。特にももクロ(ももいろクローバーZ)。週末はそっちに時間が取られてしまって。80年代はよくライブに行ってたんです。レベッカとかオフコースとか中島みゆきとか割と節操なく(笑)。フォーク系もよく行ってたな。でも宿をはじめてからは時間もなくて離れてたんです。…こじつけかもしれないけど、ももクロのライブは宿の仕事に反映できる何かが得られるんじゃないかなっていうのもあって。
―そうなんですか?
五十嵐
僕の中で「老若男女」っていうのは宿をやる上での絶対的なキーワード。特に若い子には楽しい旅をしてほしいので年齢割引とか考えて、若い人が泊まりやすいようにしています。ももクロのライブ会場には若い子から僕みたいな年の人までいて、男女比も同じくらい。それだけ幅広い年代の人が同じ空間で同じように楽しんでいる理由は何なのかな、とすごく興味があるんです。
―確かにそうですよね。
五十嵐
90年代の「小さな旅の博物館」のオーナーさんみたいに、光り輝くものがあったらそこに集って来るんですかね。
―そうですね…。五十嵐さんは男子が多い環境で思春期を過ごして、あまり女子と話すのも得意ではなかったようですが、接客業にはハードルを感じなかったんですか?
五十嵐
人と話すのが嫌いっていうのではなかったんですよね。アマチュア無線は中学の時からやってますけど、知らない人と交信する時も何か話さないといけないので。
―あ~なるほど。五十嵐さんは夕食の最中も会話に参加して、お客さんに話を振っていますよね。話すのが得意ではなく、お酒も飲めないというお客さんが、五十嵐さんに話を振ってもらったおかげで会話に参加できたとおっしゃっていましたよ。
五十嵐
ライブに通ってエンターテインメントの世界から得たものですかね。…ウソですね(笑)。宿には本当にいろんなお客さんが来ますけれど、その場にいる人のいい所、おもしろい所を見つけてそこに光を当てるとポンって空気が変わることがあるんです。
―おぉ、プロですね!
五十嵐
話の内容として特に本質的なことを聞きたいと思っているわけではなく、ちょっとしたネタを広げるとくすくすって笑いが起きたりするじゃないですか。
ーそういうので場が温まったりしますからね。
五十嵐
自分でトークができないんですよ、わんわんさんみたいに。ガーンとしたものがない。だから重箱の隅をつつくようなことで何かできないかなってやってます。
哉子
まぁカリスマ性はないね(笑)。
五十嵐
引き付ける力はないから(笑)! 宿によっては、通い詰めてるお客さんがいるような宿もあるけど、うちはそれはない。強烈な「旅物語」のファンになって欲しいっていう気持ちはさらさらなくて、うちの宿が北海道ファンになる入口になればっていう感じ。北海道に来てうちではじめてこういう旅人宿に泊まった人が、他の宿も泊まってみたいな、と思うような宿ですね、開業当初から考えていたのは。
―なるほど。
五十嵐
来てくれた人が、うちの宿が楽しかったからって毎年来てくれるのもうれしいけど、それにこだわってなくて、2、3年ほかをまわって、久しぶりに道南に行こうかなっていう時に来てくれるので十分なんでね。
哉子
10年に1回…?
五十嵐
いや、せめて4年に1回…オリンピック並みで(笑)。
2019.12.10
文・市村雅代