「かつての駅のように、人を
有機的につなぐ空間になれば」
天塩弥生駅
富岡達彦さん | 北海道出身、千葉県育ち。中学時代、マンガの「サイクル野郎」(1971~1979年)に触発され、自転車での日本1周を夢見るが、16歳になって原付の免許を取ってからはバイクでのツーリングにシフト。1997年北海道下川町へ移住、2016年に名寄市で宿開業。地元FM局開局に合わせてアナウンス検定2級を取得。複数の番組パーソナリティを務める。ほかにも「東京時代にやりたくてやれなかったことを全部やろう!」と芝居やゴスペルで舞台に立ち、今後は朗読にも挑戦したいと思っている。 |
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小さい頃からの夢だった鉄道員として東京で働いていたが、バイクで国内の林道をめぐるうちに、開発が進んでいることをひしひしと感じるように。現状を知ろうと、北海道下川町に移住。林業に従事する。その後、妻共々旅人だったことから旅人を迎えるような仕事をしたいと考えはじめ、駅の跡地にその駅名を付けた宿を開業した。駅長は妻の由起子さん、富岡さんは首席助役。冬は鉄道車両型かまくらづくりやアイスキャンドルづくり、深名線跡スノーシューツアーを実施。毎月、第二第四金曜の夜8時からは自身がパーソナリティを務めるラジオ番組に、宿泊客がゲスト生出演!
駅跡地での開業が決まり
昭和の木造駅舎を模した宿づくりを開始
―この宿の建物…というか駅舎(笑)は、古びて見えますが、2015年に新築したものなんですよね?
富岡
そうなんです。自分が頭の中で思い描いているような、昭和っぽい駅舎のイメージを理解してくれる工務店さんを探すのに時間がかかりました(笑)。で、困っていた時に、下川町の移住仲間が独立して工務店をはじめたことを思い出して連絡したらおもしろそうだねって言ってくれて。
―よかったですね!
富岡
ただイメージは今ひとつつかめないって言うから、時間作ってもらって、一緒に北海道内に残っている木造の駅舎をめぐって歩いたんですよ。一番イメージがつかみやすかったのが朝の連続テレビ小説「すずらん」(1999年)で使われた恵比島駅(沼田町)の横にあるセット。あと深名線では農家さんに買われた駅舎を見に行ってみたり。旧池北線沿線に残っている駅舎だとかも参考にしてもらって。
―確かにイメージはビジュアルで確認した方が早いですよね。
富岡
でも工法は今のもので。とにかく寒くないように基礎断熱も壁の断熱もしっかりやってもらって。塗料は工務店の人がいろいろ調べてくれて神社仏閣を補修修繕する塗料ってのがあった。ちょっと高いけどそれを使ってみるかって話になって。できた時からエイジング加工をまるまるかけてこういう建物になったんです。
―そもそもなんで駅舎にしようと思ったんですか?
富岡
ここが天塩弥生駅(1995年廃駅)の跡地だったからですね。やるんだったら形はここにあったものだよねって。宿をはじめようと思って別の町の廃駅跡地も聞いてみたんだけど、すでに使う予定があるからダメだと言われて。その時に、名寄市の天塩弥生駅跡地が空いてたなと思い出したんです。それで市の担当部署に行ったら、あそこで何するのよって目を丸くされて(笑)。
―あはは。広さはかなりありますけど、どれくらいなんですか?
富岡
3700坪。
―…!
富岡
で、こういうことやろうと思っているんだって話したら職員の人がわらわら集まってきちゃって。おもしろそうなこと言ってるねーって。それで一応、市の土地なので入札にかけてもらって、手に入れました。そういうことで昭和の木造駅舎にコンセプトを絞って広く旅人を受け入れられる宿にしようって。
―ただ、コンセプトを決める以前に、すでに廃駅の跡地に目をつけていらしたんですよね?
富岡
北海道中をバイクで旅していた時に廃線めぐりをしてたっていうこともありますね。本当は営業路線の駅でやれたらもっとおもしろかったんだろうけど、そういうわけにもいかなかったので。
―お話を名寄市に持って行ってからどれくらいで手に入れたんですか?
富岡
9月下旬に話を持って行って10月下旬くらいに入札。すぐにやってくれて。で11月にはもう法務局とかに手続きに行ってた。
―はやーい!
富岡
ものすごくスピーディーだったんです。自分たちも旅人だったので、50歳くらいをメドに旅人を迎えられるような仕事ができたらいいなと思っていたら背中を押されるように、事がトントンとそっちに向いて行ったんですよね。
―そういうことってありますよね。
富岡
建物は6月に着工して、10月には完成したんですけど、除雪のことや暖房器具が足りるのかとか冬の状況をテストしたいっていうのもあったんで、冬の間、友達呼んで宴会するのもいいなって。翌年に北海道新幹線が開業するタイミングだったので、建物のデコレーションを手伝ってくれた仲間だとかと相談して、宿の開業日をそれに合わせることにしました。北海道にはローカル線もあるんだぞ、そこにも目を向けろっていう皮肉もちょっと込めて。
―2016年3月26日ですね。そこに向けてひと冬は仲間内の宴会を兼ねたモニター期間に。
富岡
泊まってもらって、夜寒くないかい、とか寝心地悪くないかいとか。ベッドは友達の職人に造ってもらったんです。
―仲間の方の協力がいろいろあったんですね。
富岡
7本ある木の電信柱、通称「はえたたき」は、最初売らないって言われたんだけど、何回も通って最終的には格安で譲ってもらった上に、開業日にはご祝儀を持ってお祝いにも来てくれて。協力者が協力者を呼んでどんどん輪が広がっていって、本当にうれしい限り。これはちゃんと宿をやらないと、って外堀から埋まってきちゃった感じです。
あこがれていた鉄道員になるが
旅で森林の現実を知り林業の世界へ
―元々鉄道員でいらっしゃいますけど、いつ頃からなろうと思っていたんですか?
富岡
小さい頃からあこがれていたんです。幌内線(1987年に廃線)の終点、幾春別駅(三笠市)の生まれなんです。森林鉄道だとか運炭鉄道だとかが枝分かれしていて、そこが遊び場だったんです。ガタピシいうような、あまり立派ではない線路だったんですけど、これが日本全国につながっているんだと思うと子どもながらに旅心的なものを感じていたんでしょうね。その頃に「鉄分」を…(笑)。
―吸収していたんですかね(笑)。
富岡
幼稚園に入る前くらいから、町へおふくろが買い物に行くって言うとついて行って。その頃はヤード(操車場)に蒸気機関車がひしめいていて、それを跨線橋から飽きもせず、ずーっと見ていたんです。あと蒸気機関車の煙を浴びるのが好きで。
―え~(笑)。お母さんに怒られませんでしたか?
富岡
怒られた、怒られた(笑)! あと幼稚園時代に三輪車でこっそり家を出て、ひと山越えて駅まで行ったこともあった。駅で汽車が見たかったみたいです。それがはじめての旅でした。4歳で三輪車の旅。
―あはは。そうやって小さい頃から鉄道が好きで。
富岡
意識することなく、大きくなったら鉄道員になるんだっていう気持ちでいたみたいですね。それで、中学卒業後は鉄道高校に進みたかったんですけど、父親に反対されて。普通科の高校を出てそれでも行きたかったら鉄道会社に入ればいいって。それで高校卒業後に国鉄(当時)に入りました。
―初志貫徹!
富岡
小学校の途中で父親の転勤に伴って千葉に転校したんですけど、へその緒が北海道とつながっていたのか、いつか絶対に帰りたいという思いがあって。千葉で国鉄に入ったんですが、民営化しなければ転属願を出して北海道に移動していたと思います。北海道でローカル線の車掌になりたいっていうのが一番の夢だったので。地域の人とコミュニケーションを取りながら仕事をするような。だけど、分割民営化の話が決まって、国鉄の車掌になるという夢は絶たれた形になった。
ーそうですね…。
富岡
それで、民営化される前に私鉄を受け直したら受かっちゃった。だから国鉄にいたのは2年。私鉄では、最初は駅員をしていて、その後登用試験を受けて車掌になりました。
―あこがれていた車掌さんですね!
富岡
好きな仕事ではあったんだけど、ステージが都会じゃなかったんですよね…。10両編成の長い電車じゃないんだよな、通勤ラッシュがあるような電車じゃないんだよなっていう思いがずっとありました。
―その後北海道に移住されてますよね。
富岡
鉄道員時代にバイクで北海道に通っていたんです。
―旅をはじめたのはいつ頃なんですか?
富岡
元々中学生の頃、チャリダーだったんです。自転車で房総半島をまわったり。でも16歳で原付の免許を取ってからはバイクでツーリングするようになりました。同じ頃、高校2年生からは鉄道の旅をはじめて。昭和55年(1980年)から2年かけて北海道の鉄道を全線完全乗車しています。
―すごい! 当時は今よりも路線が多かったから大変だったんじゃないですか?
富岡
結構通いましたよ。列車本数の少ない所を軸に計画を組まないと効率的にまわれない(笑)。社会人になってからは、真夏は来なかったですね。景色が真緑でおもしろくないんですよ。だから春先とか6月、9月、10月、あとは冬ですね。バイクで来る時は林道をどれだけ走りつないで行けるかって、2万5000分の1の地図とか5万分の1の地図を買って下調べして。1日の終わりに、今日はダートを何キロ走って舗装道路より多かったとかひとりで喜んだりしてました。
―はは。
富岡
で、景色がいい所とか気に入った場所があると、まだ日が出ててもそこで旅を終わりにしてテントを張って焚火して飲みはじめちゃう。
―いいですね~。
富岡
そのうち礼文島のユースホステルに通うようになるんです。道内をある程度まわったから今度は島に行ってみようと思ってたら、礼文島におもしろいユースホステルがあるって言われて。最初は2泊3日で行ったんですけど、これはおもしろい所を見つけたぞってはまっちゃって。それから通うようになりましたね。2週間くらいの休暇を取っても、最初にそのユースに行っちゃうと、もうずっと礼文島にいちゃう。何のために周遊券を買って来たのかわからない(笑)。バイクで来ても同じです。苫小牧から礼文島に行ってそれでおしまい。ツーリングなんか全然しないまま終わっちゃう。
―あはは。どっぷりですね。夜は歌ったり踊ったり?
富岡
はい。だけど割と早い段階で、準ヘルパーみたいな感じになってました。朝はフェリーのお見送りに行って館内掃除してっていう。あと雨の日なんかは行く所のない人を集めてへたくそなギターを弾いて「じゃあ歌おうか」ってやってたり。
―…それは宿泊料を払ってのことですか?
富岡
払ってます。お客です(笑)。社会人で、ヘルパーはやれなけどっていう人がいっぱいいたんですよ。割と鉄道員率が高かったですね。休みが取りやすいから。
―そこにはいつもどれくらいいたんですか?
富岡
だいたい6月と9月に2週間ずつ、毎年行ってました。
―それを何年くらい?
富岡
移住する前までだから、10年弱くらい通ってたのかな。
―せっかくあこがれの車掌さんになれたのに…北海道への移住のきっかけは何だったんですか?
富岡
本州の林道をバイクで走っているとどんどん開発が進んでいるのを感じるようになったんです。ちょうどバブル期でリゾート法もできた時期。1992年の「国連地球サミット」では日本の森林が荒廃していることや林業の担い手不足が話題になっていた。それでふるさと北海道の森林はどうなってるんだ?って気になって。北海道の林道をバイクで走ってみたり、人に聞いたりして自分なりに調べても、何が良くて何が悪いのかもよくわからなくて。それで東京で自然保護だとかを叫んでいてもらちが明かねーなと思って。
―まさか…。
富岡
若かったんですね(笑)。鉄道員は天職だと思ってたし、車掌はあこがれの仕事だったから辞めるってことはほぼほぼ考えていなかったんです。なのに、よし、山に飛び込んでやろうと。それで40日休みを取ってバイクで道内、特に道東を中心に自治体の林務課を訪ねたり、森林組合や林業会社を訪ねて行ったんです。でも、林業の現場は担い手は歓迎だけど、即戦力が欲しい。だからどこも雇ってくれなくて。
ーいきなりは難しいですよね。
富岡
「今何やってるの?」「東京で電車の車掌をしています」「あー無理無理、絶対無理だわ」とか言われて。それで北海道森林組合連合会に話をしに行ったら下川町でIターンを募集しているよって教えてくれたんです。訪ねて行ったら、ちょっと体験してみたらってことになって。とりあえずまた休みを取って1週間。下働きをいろいろさせてもらって。道北っていうのは選択エリアに入ってなかったけど、豊かな北方系針広混交林が広がってていいなと思って。で、思い切って来ちゃったんですよ、1997年。33歳の時。
―当時ご結婚は?
富岡
最初の結婚をしていました。小さい子どもら連れての移住でけっこう大変だったんですけどね。給料も前職の3分の1近くに減ったし。
―下川町は道内でも雪の多いエリアですが、いきなり東京から来て大丈夫でしたか?
富岡
最初は、築60年くらいの古い住宅を借りて。家賃は5000円だったけどものすごく寒かった。
―そうでしょうね…。
富岡
移住した年が特にしばれて(寒くて)、マイナス30度以下の日が3日も4日も続いたんですよ。厳しいって聞いてたけどほんとに厳しいなと思って。毎日ドラマでしたよ。風呂場は2日くらい入らないと湯舟の水に分厚く氷が張るんです。シャワーなんかないですから、風呂に入ろうと思ったら、まず氷を割るところからはじまるんです。
―はは、聞いている分にはちょっと楽しそうにも感じます。
富岡
ドラマの「北の国から」みたいな感じですよ(笑)。でもその話を親にしたら、自分たちが苦労していた昭和30年代を彷彿させる、何でそんな思いしてそんな所に住んでるのって、特におふくろはもう半分泣いてましたよ。私にしてみればすごくいい経験ができて、子どもたちも東京にいたら絶対にできない経験をしたわけなんですけどね。
―しかもそれは全部自分で選び取って来てますからね
富岡
そう、自分で選択してるから。やれって言われてやってるわけじゃない。
―そうやって林業の世界にも自ら飛び込んでいったわけですね。
富岡
ところがその頃の林業界って、古いタイプの職人の世界だったんですよ。まだまだ機械化も進んでなくて、誰も仕事なんか教えてくれない。どんな仕事をしたらいいのかわからない中で、仕事は盗んでするもんだって言われて。こっちは道具の名前すらわからない。
―全くの畑違いですもんね。
富岡
だから山のおじさんたちにさんざんバカにされたんですよ。東京で何か悪いことして逃げて来たのかとか。電車の車掌していたヤツが、やまご(林業従事者)なんか勤められるわけねえべや、とか言われて。で、こんちくしょうっていうのもあって、何とかしがみついてやってるうちにおもしろくなってきて。だんだん仕事も任されるようになったんです。
富岡
当時は機械化もぐっと伸びてきた頃だったので、高性能林業機械の資格を取ったりインストラクターの資格を取ったり。自分なりに先進的な林業のことを勉強してました。ただおじさんたちは全部自分の肉体で労働してきたっていう自負があるから、機械化っていうのをどちらかというと好ましく思っていない。
―何となく想像はつきます。
富岡
そんな中でもみくちゃにされて、うわー胃に穴開くってこのことかって、そんな経験もありました。
―大変でしたね…。
富岡
林業の仕事以外でも、下川の森林と都市部を結ぶ「グリーンツーリズム」をやっていたんです。森林林業体験ツアーとか森前(しんぜん)結婚を企画したり。そういうのも、宿をやりたいなと思ったきっかけのひとつでしたね。ただその後、森林に関する政治方針が変わって、森林林業の進む方向が大きく変わったんです。それで、林業も15年やったからもういいか、やりたかった宿のほうをやってみるかと。
―それで宿業に乗り出したというわけですね。
周囲の人たちと作り上げた宿を
旅人、地元民が交流する場に
―宿をやる場所はこの近辺で探されていたようですが、それはどうしてなんですか?
富岡
当時下川町に住んでいたっていうのもありますが、北海道を旅する本州の人って、道北っていうと旭川の次はもう稚内になっちゃうんですよね。
―あぁ、ガイドブック的にはそうかもしれません。
富岡
この辺って空白地帯なんです。下川にいた頃からそれは気になってて。何とかこの辺に人を呼べないもんかねって。この地域にはおもしろい人もいるし、おもしろいことをやってる人もいる。そういうのを結ぶトレイルを作っていくことはできないかなとか。この辺に滞在してもらうことを考えたいよねって。宗谷線はJR任せにしていたら存続が危ういので、こちらから逆提案できるような、沿線地域がどう支えていくかとかも考えないといけないなとか。そんなことも視野に入れながら宿の開業を考えたんです。
―旅人時代に通った礼文島は考えなかったんですか?
富岡
礼文は宿がたくさんありますからね。一番ないのがこの辺。この辺でお互いに助け合えるような距離感で宿が点在していたらおもしろいじゃないですか。
―確かに!
富岡
話をするのはきらいじゃないんです。だからここに泊まって通り過ぎていく人にこの地域の隠れた魅力を紹介したりおもしろい人たちを結び付けたりもできるかなと思っています。
―ご自身が元々鉄道の職員で、こういった宿ですから、鉄道マニアの方が集まってくるんじゃないですか?
富岡
僕が鉄道マニアではないんですよね。
―そうなんですか!?
富岡
職業として鉄道を愛していたので…乗り鉄とか撮り鉄とかあるじゃないですか。それでいうと、うちらは「職鉄」って呼んでる。
―はは。
富岡
だから車両下の機器だとか電車のパンタグラフがどうしたとか、てっちゃん(鉄道ファン)が話しているような内容はちんぷんかんぷん。
―本当ですか!?
富岡
車掌として仕事に関わる知識以上のものはないです。だからうちのお客さんも旅人兼鉄道ファンという方は来ますけど、コアな鉄道ファンは来ないんです。というのも、コアな鉄道ファンは、現役の路線を追いかけているので。むしろ「廃」マニアが多いですね。
―あ~なるほど! 宿の中の装飾品は、富岡さんがコレクションしていたものだと思っていました。
富岡
自分でコレクションしていたものもありますが、旅情のひとつとして好きだったんですよね。鉄板サボ(行先板)の入った列車に揺られていくっていう感じとか。
―昭和のローカル線という感じですね。
富岡
周遊券で旅をはじめた高校生の頃の風景を再現したいっていうのがあって。あと国鉄のOBの人がね、自分が死んだら投げられ(捨てられ)ちゃうからって持って来てくださるんですよ。投げられちゃうくらいならここでみんなに見てもらった方がいいわーって。
―そうやってこの雰囲気が出来上がっていったんですね。宿を開業して3年です。
富岡
まだまだお客さんに育ててもらってる感じはあります。大したことはしていませんが、居心地がいいと言って帰って来てくれるお客さんが増えているのでありがたい。昔、駅は地域を有機的につなぐ場所でした。この宿もそんな場になればいいなと思っています。
2019.11.26
文・市村雅代