「人が集まる場所を
北海道ではじめてみたかった」
サロマ湖ゲストハウス さろまにあん
前川浩一さん | 三重県出身。旅の原点は「知らない所」「遠い所」に行きたいという思いからの「家出」。小中学校時代は自転車で「遠く」に出かけていたが、高専2年で原付の免許を取得してからは一気に行動範囲が広がり往復300キロ範囲を日帰りするようになる。「知らない所」ということで海運の世界に飛び込み、高専時代の部活には、それまで見たこともなかったハンドボールを選択した。船員時代の経験から、星の位置で自分のいる場所を割り出すことができる。 |
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学生時代の旅をきっかけに、北海道で人が集まるような場所を作りたいと思いはじめる。北海道移住へ気持ちが固まりつつあった時に、突然宿譲渡の話が浮上。当時は海運会社の陸上勤務だったが海上勤務に戻してもらい準備資金を調達。当時交際してまだ2か月だった妻との結婚を決め、2人で移住し宿を開業した。冬はサロマ湖の凍った湖面をフィールドにスノーモービルなどが楽しめる。
機関士として海上、陸上勤務を経験した
海運会社での社会人時代
―宿主の方の前職はいろいろですが、前川さんはその中でも珍しい元船員さんですね!
前川
はは。そうですね。
―それがなぜ宿主に…。商船高専を出られているので中学3年生の時にはすでに海運業界に進みたいと思っていらしたんですか?
前川
いや、それがいいかげんで(笑)。あまり学業成績がいい方ではなく…。行ける学校の中でも、普通に県立に行ったらおもしろくないなというのがあって、そういう特殊な学校へ。
―そうだったんですね(笑)。
前川
学科は入学時から航海と機関に分かれていたんですが(当時)、機関士を目指すほうに進みました。子どもの頃から機械いじりとか物を分解するのが好きだったんです。せっかく買ってもらったラジコンをバラバラにしちゃったり、高専の時にはじめて買った原付もバラバラにしちゃって、バイク屋さんに頭下げて直してもらったり。中身、しくみが気になるんですよね。
―はは。高専というと入ってからの勉強が大変なイメージがあります。
前川
航海と機関の学科を合わせると80人入学して、そこに留年してきた先輩2人が加わりましたが、卒業したのが50人。
―えー! その学年が特別ではなくて?
前川
割とそんな感じでしたね。勉強や集団生活についていけなくなる人が出てくるみたいです。僕はぎりぎりついて行けたんでしょうね。追試は何回か受けたりしましたけど落第することなく進級できました。
―同級生も皆さん海運業の方に進まれてるんですか?
前川
海運業は昔に比べると不景気になっていたけど、僕たちの頃は割と就職しやすかったんです。僕も会社見学に行っただけのつもりが採用になりました。入社試験というものを受けていない…。
―すごい! 学校に入った時点での動機はともかく(笑)、結局海運関係に進んだんですね。
前川
学校では最後の1年、乗船実習で航海訓練所っていう国の機関に行くんです。その時、この仕事はいいな、と思いました。船の中だとみんなですごく助け合ったりするし。給料は高くて休みも長い(笑)。僕は外国に行く船に乗っていたので、だいたい8か月働いて4か月休みでした。
―そんなにずっと乗ってるんですね。そしてまとまった休みが長い!
前川
悩みは休みに四季がないこと。ほぼ毎回冬だった。
―何を運ぶ船に乗っていたんですか?
前川
タンカーです。東南アジアとかペルシャ湾から原油を運んでました。東南アジアだと3週間くらいで、ペルシャ湾だと1か月半くらいで1往復。
―それを8か月の間何往復もするんですね。
前川
そう。僕2社勤めているんですけど、最初に入った会社では12月に初乗船して。だけど年明けくらいから、やっぱり学校に行きたいなって思いはじめて。商船大学に行きたくなったんです。それで2月に船を降りて退職しました。だから最初の会社に在籍したのは5か月(笑)。
―なんで大学に進みたいと思ったんですか?
前川
まわりには大卒の機関士もいて、高専出だとある意味専門学校を出ただけ、というように感じてしまって。将来的には大学を出ていないと部長になれないとか、実際に働きはじめてからもう1回勉強がしたいなって思ったりして…思いつきですよ(笑)。商船大学には編入学で入れるんですけど、その試験が秋なんです。それで春から勉強して…まぁいい加減な気持ちでやっていたので、受験した大学2つとも落ちて。
―あらら。
前川
さすがにもう1年って言うのは親にも言えないなと思って。母校に受験結果を話しに行ったら先生が東京の船会社を紹介してくれて、12月からその会社で働くことになったんです。
―すぐに次の勤め先が決まってよかったですね。
前川
当時は船員が足りてないっていうのもあったのかな。そこで5年船に乗って、5年陸上勤務をしました。
―船に乗っている間は船のメンテナンスをしていたんですか?
前川
そうですね。機関士なので、機械のメンテナンスが仕事。エンジンの点検をしたり。車検のように整備間隔が決まっている機器がたくさんあって、部品点数もすごくたくさんあるのでそれを定期的に点検したりしていました。1回機関室が火事になったことがあるんです。警報器が鳴ったと思ったら船中の電気が落ちた。2018年に地震の影響で北海道中が停電になったのをブラックアウトって言いましたけど、船内でも船全体の電力がなくなった状態をそう言います。そういう経験をしているので、どんな非常時でもなんとかなるっていうくそ度胸はついたと思います。2013年のオホーツクエリアの暴風雪とか、それこそ去年のブラックアウトの時とか、特に慌てることもなかった。人にはない経験をしたという自信はあります。
―本当にそうですね。…船員さんと言えば、「港々に付き合っている女性がいる」なんていうことも言われますが(笑)。
前川
それは僕が勤めていた頃からさらに30年くらい前の話(笑)。荷役の効率があまり良くなかった時代は停泊している時間が長かったから。僕のパスポートに入国のハンコはたくさん押されているけど、停泊中にしかできないメンテナンスもあるので上陸できないことがほとんど。オーストラリアはパスポート的には入国したことになっているけど、油田に船をつけて終わりだから、大陸さえ見てない(笑)。
―あはは。そんなこともあるんですね。結構忙しいお仕事ですね。
前川
航海中は8:00~17:00の仕事。夜間は延長警報システムが監視してるんで。ただエンジンルームって室温が44度くらいあるんです。それで休憩時間が多くて実働は5時間くらいかな。一応海上勤務中でも休暇が10日に1回くらいありました。まぁ航海中なので、仕事をしなくてもいいっていうだけの日ですが。
―その生活が5年間でその後陸上勤務に。
前川
乗っていた船を会社が売却することになって東京で働くことになったんです。東京ははじめてではなかったんですけど、どこかトレンディードラマのノリで行ったら会社の借りてくれたアパートが松戸(千葉県)で、こんな部屋!?っていう感じでした。
―はは。陸上勤務の時はスーツを着て…。
前川
そうですよ! 満員電車に乗って通勤していました。
―ずっと「船員」をされていたのかと思いました。
前川
陸上勤務はやってよかったです。一般的な社会人の感覚がわかったし、社会通念的なマナーとか…会社には毎日ひげを剃って行くっていうこととか教わって(笑)。
―あはは。
前川
陸上勤務でも基本的に機械関係の仕事をする工務課にいたんですけど、部品の調達のほかに船を設計段階からメーカーと調整しながら造る仕事もあって。
―船を造るのは造船会社じゃないんですか?
前川
車みたいに完成品をディーラーが届けるんじゃなくて、積み荷の内容とかそれを届ける周期で船の大きさが変わるので…。
―専用船なんですね。
前川
場合によっては。そういうことも陸上勤務になって知ったし、営業や社外の人と調整しながら進める仕事もあった。海上では基本的に同じ世界の人としか会わないから、すごくいい勉強になりました。
降ってわいた宿譲渡話で
夢が一気に実現へ
―充実した会社員ライフを送っていたようですが、そこから「さろまにあん」の宿主になるんですよね?
前川
さかのぼると、19歳の時。車の免許を取ろうと思ってお金を貯めていたら、親が出してくれたので、浮いたお金で中型バイクを買ったんです。
―車の免許を取りに行ってバイクを買ったんですね(笑)。
前川
そうそう(笑)。それで友達とバイクで北海道をまわろうということになって。はじめての北海道。その時は泊まる宿から帰りのフェリーまで全部事前に決めて行ったんです。宿は民宿とかキャンプ場のバンガロー。でも途中で友達が事故ってその日の宿泊予定の場所まで行けなくなったんです。それで、前の日に雑誌ではじめて存在を知ったライダーハウス(ライハ)というものに泊まったんです。その時泊まったライハは毎晩カンパ制でジンギスカンをやっていて、泊まり合わせた人との話もすごく楽しくて。そしてすごく安い。500円くらい。民宿の10分の1!
―学生だと安さも魅力ですね。
前川
それ以降も予定通りの行程じゃなくなったので、結局ライハを使ったんじゃないかな。
―ライハがおもしろくなっちゃった。
前川
そう。そうしたら帰りのフェリーで知り合ったバイク乗りの人が、北海道はキャンプ場がおもしろいんだよ、タダの所も多いよって教えてくれて。その人は2週間くらいいて5万円くらいしかかからなかったって。それで、何それ!って。ライハの500円でびっくりしてたのにキャンプ場はタダなのか!って。で次の年、学生最後の夏休みにテントを買って今度はひとりで基本ライハを使いつつキャンプ場にも泊まって北海道をまわって。その世界がすごく楽しかったんですよね。こんなところで暮らしてこんなことをできたらなって思いはじめたんです。宿というよりは人が集まる場所ができればいいなみたいな感じでしたね。東京でも人を集めて飲んだり食べたりっていうのはよくやっていたし。機械好きだったので、ガソリンスタンドか整備工場をしながら隣でライハをやるのもいいなぁと思ってました。
―人が集まる場所を「北海道」で?
前川
そうですね。北海道に来て、こういう世界があるんやって知ったので、北海道でこういうことできたらなって。
―そうだったんですね。
前川
次に北海道に行ったのは海運会社で陸上勤務になってから。だからその6年後。船に乗っていた間は休暇が冬だったから北海道には来てなくて。
―バイクに乗れないですもんね。
前川
陸上勤務になってからは、普通に1週間くらい夏休みが取れるようになったので、毎年北海道にバイクで行ってました。はじめてさろまにあんに泊まったのは99年の夏かな。そうしたら、そこ冬もいいよって、地元の友達、とほ宿「ばっかす」の伊東幸さんの奥さんですけど、に教えてもらって2000年の2月に来たんです。それでスノーモービルに乗せてもらったり、流氷を見に連れて行ってもらったり、パラセーリングもその時飛ばしてもらって。それで冬すごく楽しいなって。実はその時、すでに北海道に住もうと思っていて、2、3年かけて候補地探しの旅、みたいな感じでまわってたんです。
―その時には宿をしようと思っていたんですか?
前川
宿である必要はなかったけど、ライハで楽しく過ごした思い出はあったので。
―どの辺が候補地だったんですか?
前川
道北とか宗谷周辺…。海が見える所が好きだったので。で、この時にオホーツク海の沿岸いいな、冬でもしっかり遊べるなと思って、このエリアで場所を探すつもりでその年の夏、そして翌年の2001年の冬にまた来たんです。その時には夏のボーナスをもらったら仕事を辞めるつもりでいました。ちょうど勤続10年だったんで、自分で区切りをつけて。
―住む場所が決まってなくても。
前川
はい。で、さろまにあんに泊まった時に、先代に夏の間ヘルパーとして使ってくださいっていう話をしたんですよ。その時はおぉそうか、くらいだったんですけど、最後の日の帰る間際、もう出ようとした時に玄関先で、次の年、2002年の2月で20周年になるのを機にオレは宿をもう辞めるからおまえやれって話になって。
―えー! その状況で!?
前川
そう。5分、10分じゃ決められない(笑)。で本当にちょっとだけ話をして、東京に帰って考えて。ぶっちゃけここがどんな所かよく知らず…。夏に2回、冬に2回来ただけで合計10泊もしてないくらいだったし。
―はは、そうですよね。
前川
降ってわいた話なんで。でも割と飛びついた感はあったかな。その時はもう佳子とも付き合ってたんでこういう話があったんだよね、って話して。そしたらいいんじゃないのって。でも不動産を買うほどの貯蓄はなかったので、とりあえず海上復帰をしたいと会社に申し出て。乗船中は給料がほぼ倍ですから。お金が欲しいんです、辞めるんで海上に戻してくださいって(笑)。
―いい会社ですね~。辞めるのを前提に…。
前川
頑張って働いていたからちょっとは認めてくれたのかな。それで先代にはお金を貯めて来年の春にまた来ますということで。20周年がその春だったから、ちょうどよかったのかもしれない。2002年の春に退職、移住っていう目標ができたのでそこに向かっていろいろ準備をはじめました。
―じゃあ海上勤務で貯めたお金を資金にして。
佳子
私のお金も入ってる(笑)!
―あぁそれは主張しないと(笑)。佳子さんは当時どう思っていたんですか?
佳子
最初は「頑張って~」って。
―はは。自分は東京で働いているからって?
佳子
実現するのかしないのかよくわからなかった。だから頑張ってくださーいって(笑)。
前川
2000年の年末につきあいはじめたので、まだつきあって2か月くらいやったし。
―えー!
前川
でも宿はやってもいいんじゃないのって言ってくれたんで、お互い独身同士で行くのもっていうことで、結婚して行くかって。5月には東京の佳子の実家とうちの三重の実家にあいさつに行って。
―まだ交際して日も浅いし、普通だったら遠距離恋愛になるのかなと思いますが。
前川
つきあう前から北海道に住みたいって言う話はしてたんですよ。で、佳子にもさろまにあんを見せなきゃってことになって。ちょうどその頃佳子もバイクの免許を取ったので、夏にツーリングがてら見に行ったんです。で、こんな所ですって見せたら…泣きそうな顔をしてました(笑)。
―はは。佳子さんはあれよあれよという間に話が進んで、仕事も辞めなきゃいけなくなったし。
佳子
本当ですよね。でもそれもおもしろそうかなと。北海道に関しては、母親が札幌育ちなので親近感はありましたし。サロマは知らなかったんだけど(笑)。
―看護師として働いてらしたんですよね?
佳子
5年働いていました。人のお世話をしたくて看護師になったので、そういう意味では宿業も魅力的でした。
―確かに。では宿業はともかく…結婚は迷わなかったんですか?
佳子
外堀からあれよあれよという間に…。
―はは。
前川
オレ悪い人みたい…。
佳子
でも精神的に安定しているっていうか動揺しない感じで。信頼できるっていうか。
―前川さん、よかったですね!
前川
よかった(笑)! そうでなければ今はない。
佳子
ただ宿をやるって最初聞いた時、私は看護師をして食べさせていかなくちゃと思ったんです。だからこの辺で結構就職先を探したんです。宿がうまく行かないかもしれないから、私が働いて支えていつか宿ができるようにって。
―すごい覚悟ですね! 結果として看護師として働くことはなく?
前川
いやうちらが来た年の6月に、近くに訪問看護ステーションができて、有資格者を探していたんですよ。
佳子
お誘いいただいて結局8年やってました。
―じゃあ地域の人はラッキーでしたね、看護師の資格を持つ人が来てくれて。
佳子
私もラッキーでした。顔を覚えてもらえた。ここで宿をやってるだけだと、地元の方には「知らない人が来た」で終わっちゃいますから。
―確かに宿にいらっしゃる宿泊客は基本的に地域外の方ですからね。地域の人と仲良くなる機会が…。
前川
佳子は訪問看護で、僕は先代が行ってた漁師の手伝いに4月から行かされてたので(笑)、そこで知り合いが増えた。そのつながりで1年後くらいに消防団にも入って、漁業関係者以外にも知り合いが増えたし。…でも町内に知られるようになったのは近所の魚屋さんの影響が大きいね。
―漁の関係ですか?
佳子
毎日買い物に行ってる所(笑)。
前川
そこの人が面倒見が良くて。ほぼほぼ身内みたいな扱いで本当によくしてくれて。
―よかったですね~。
前川
いなかの商売ってどこの馬の骨かわからない人間には物を売らないくらいの勢いがあることもあるけど、そういうこともなくて。それは本当によかったです。
手探りの状態から
少しずつ自分たちらしい宿へ
―前川さんはヘルパーなどの宿業の経験は?
前川
先代時代の2~3月に引継ぎ作業で行ったんだけど、結局手持ち無沙汰で。それで、ヘルパーの人に混ぜてもらって仕事してました。その時、「ばっかす」の(伊東)幸ちゃんと奥さんの恵ちゃん(恵子さん)がヘルパーだったんです。
―そうでしたか! その時はじめて宿業的なことをしたんですか?
前川
そうですね、僕は学生の時に旅館でバイトしたことはあったけど。うちらは4月17日にこっちに来たんだけど、23日ころに先代時代のお客さんが来ちゃって。
―引っ越してすぐに。大変だ!
前川
とりあえずご飯。先代時代のご飯のボリュームを思い出してこんな感じってやってました。
―はは、いきなりスタートして大変でしたね。
前川
佳子のほうが大変だったと思います。GWにやった先代さろまにあんの閉所式はうちらと先代のお二人、あと幸ちゃんたち昔のヘルパーさんたちが手伝ってくれて、すごく助かった。右も左もわからなかったから。
―はは。
前川
先代の時代は正式にはそこまでなんですが、結構大変なものを引き継いで…ワゴン車1台と犬2匹。
―はい(笑)!?
前川
あとサロマ湖100㎞ウルトラマラソンの予約はもうもらってるから頑張ってくれなって。
―毎年6月下旬に行われる大イベントですよね。もちろん満室…。
前川
そうそう、そんな感じで宿がはじまりました。当時何をやっていたのかよく覚えていないです。
ーはは。宿名を変えることは考えなかったんですか?
前川
あまり深くは考えてなかった。ゆっくり考えている暇もなかったし。
―先代時代にかなり人気を博していたスノーモービルや氷上パラセーリングの体験は今も続けてやってますよね?
前川
道具があったのでそのままはじめましたけど、その後道具は全部入れ替えて続けています。元々「遊び」が大好きだったんで。
―冬が満喫できますね!
前川
そうですね、僕自身も冬が一番好きかな。でもやっぱりうちは宿屋なんで、まずは疲れた体を休めてもらうのが一番。遊びや夜のお茶会はその次。ゆっくり休んでもらえる環境づくりが僕たちの仕事だと思ってます。
2019.11.12
文・市村雅代