「雨竜町での宿開業は自分と
お客様の“ふるさと”づくり」
たびびとやど ゆき・ふる・さと
重久晃範さん | 埼玉県出身。2000年宿開業。小さい頃から電車好きで鉄道車両の設計の職に就く。「Qちゃん」の愛称は会社員時代に有給休暇をよく取っていたから…など9つの理由があるそう。2018年に唎酒師の資格を取得。「次はコーヒーマイスターかな」。パソコン講師としての顔も持つ。 |
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電車のある風景の中で育ち、高校生になると幼い頃親に連れられて行ったいなかへの列車旅のワクワク感をひとり旅でも味わうようになる。大学時代に、小学生の頃から心引かれていた昭和新山を見に北海道へ。以来、北海道へ通うようになる。社会人となり神戸で働いていたが、阪神・淡路大震災をきっかけに宿開業への思いを具体化させていき、雨竜町で開業。唎酒師の資格を取り宿泊客に日本酒をおいしく、楽しく飲む機会を提供している。閑散期には「雨竜沼湿原に宿主と登るツアー」を実施。11~3月(年末年始は除く)は週末のみ営業。
特急列車の非日常感と
いなかでの楽しい時間が旅心の下地に
―昨年唎酒師(ききざけし)の資格を取得されたんですよね。
重久
「布団付き居酒屋」を標榜しています(笑)。
―お酒にはいつ頃から興味を持つようになったんですか?
重久
旅でとほ宿に泊まるようになってからですね。
―そうだったんですね! 旅はいつ頃からしていたんですか?
重久
高校時代に青春18きっぷや周遊券を使って信州あたりを旅したり、行きと帰りに同じ路線を通らない「一筆書き」の旅をしたりしてました。小さい頃から鉄道が好きだったんですよ。当時は東京の早稲田に住んでいて、目の前に都電が走っていたんです。あと母親の実家が宮城県の石巻なんですけど、そこに行くときに特急列車に乗るのが楽しくて楽しくてね。日常と全然違う感じで、どこかに行くって感じが。で、着くと木の実とかイチジクを採ったりじゃがいも掘りに連れて行ってもらったり。ヤギもいたし。じいちゃん、ばあちゃんはかわいがってくれるし。まぁ当時の子どもからしたらディズニーランド級の楽しさですよね。
―はは。
重久
それを繰り返すうちに自分でもどこかに行きたいな、と思いはじめたんです。どちらかというと街よりいなか。普段が都会暮らしなんでね。時刻表を見るのも好きでした。
―時刻表を読むようになったのはいつ頃なんですか?
重久
親が買ってきていたので見る機会は多かったんですけど、自分で買うようになったのはおそらく小学生の時…。
―え? 小学生で? 何時何分の列車に乗って、この駅で乗り換えてってやってたんですか?
重久
そうそう。でも小学生の時はじいちゃん、ばあちゃんの家周辺の行ったことのある駅にどうやったら行けるかって見てました。中学生になるとほかの所にはどうやったら行けるのか興味を持ちはじめて。
―まずは身近な所からだったんですね。
重久
小学生の時って学校でも段階を踏んで地域のことを勉強するじゃないですか。東京だったら最初は区、その次は都、次は日本、世界っていう感じで。で日本の勉強をしている時に教材かテレビで見て引かれたのが昭和新山。
―北海道ですね。
重久
昭和になってできた山があるっていうことにものすごく引かれたんです。噴火して急にもこもこって山になっちゃった所があるんだ、行ってみたいなって思ったのが北海道とのファーストコンタクトです。
―それが小学生の時。
重久
そう。でも当然まだ行くっていう話にはならないですけどね。漠然と「すごいな、北海道」みたいな。
―実際にはじめて北海道に行ったのはいつだったんですか?
重久
大学2年の時。バイトで金も貯まってきたし行くかって。昭和新山を見に。
―いよいよ対面。どうでしたか?
重久
晴天の日でどーんと見えて。うわーって思いましたね。思ったよりも小さかったけど、満足感があった。
―望みを叶えましたね!
重久
それでほぼ旅の目的は達成したわけなんだけど。
―あはは。
重久
国鉄の周遊券を持っていたので、北海道一周くらいはしようと思って、とりあえず襟裳岬を目指して、そこからは反時計回りに道内をまわりました。
―宿はどこに泊まっていたんですか?
重久
基本ユースホステルですね。人気宿だと100人以上泊まっていることもあったと思います。夜はミーティングって言って観光案内とか聞く時間があって。そこでヘルパーさんが歌ったり踊ったりするんですけど、もうヒーローですよね。終わると女の子がヘルパーさんの所に行って話をしたりして。男の子のひとり旅だったんで、いいなぁと思いましたね。
―ヘルパーにはなろうと思わなかったんですか?
重久
宿に居続けようとは思いませんでしたね、まだ北海道に来たばかりだったし。でも影響は受けました。こんな世界があるんだなって。当時はインターネットもない時代なので、旅行から帰ったら写真を送るよって住所を交換して。旅から帰ると何十通と書いては送りってしてました。たいてい女の子でしたけど。
―そこで何か実ったりはしなかったんですか?
重久
なかったですね(笑)。でもそこで実ってたら、北海道への思いもそこで終わってたと思います。
―はは。
重久
この時の旅で泊まったユースで「とらべるまん」(道内の観光地、旅人宿を主観で紹介する冊子)をもらったんです。旅から帰ってからも何度も読み返してげらげら笑いました。この本がなかったらその後北海道に行ってなかったかもしれません。
―そこで道を誤ったわけですね。
重久
そう(笑)! とらべるまんがなかったら北海道にそんなに行ってない!
―あはは。最初の旅以降北海道へは?
重久
大学3年の夏と4年の冬に行きました。信州や東北にも行っていましたけど、関東から西や南の方ではなくて北の方に行くことが多かったですね。就職したらもう旅行には行けなくなると思って、大学4年の時は奮発して北斗星(寝台特急)に乗って北海道から帰りました。
―確かに学生時代より、旅に費やせる時間は限られますよね。
重久
ところがやりくりすれば休みの取れる会社だったんです(笑)。休めるのがわかったんで、2年目からまた北海道に行くようになりました。
ーいい会社ですね!
重久
休みを取るために半年くらい前から上司に、この期間は休む、と話しておいたり、仕事をやりきるため徹夜したりということもありましたけどね。
―一生懸命働いて、休みを取って。メリハリのある会社員ライフでしたね(笑)。交通手段は変わらず鉄道だったんですか?
重久
会社では鉄道車両の設計をしていたんですが、バイクも作っている会社だったんです。それで社員割引でバイクを買って、北海道にはバイクで行くようになりました。社会人になったらもう行けないと思っていたんで、ここもあそこもってあちこち行きました。
―満喫してますね~。
重久
でも宿では、学生の時と違って、みんなと歌ったり踊ったりするんじゃなくてお酒も飲めた方がいいよな、心ゆくまで話ができたほうがいいなって。実は「とらべるまん」と一緒に「とほ」ももらっていて、とほ宿の「あしたの城」に行ってみたんです。これならいいわーって(笑)。それでとほ宿に行くようになったんです。
―とほ宿も100軒くらいあった時代ですよね。
重久
そうです。どんどん増えている時代でした。
―会社員をしつつ好きな旅が存分にできていいですね~。結局何年くらい会社に勤めていたんですか?
重久
7年半。仕事は、大学に入る時から進みたいと思っていた分野で、自分のやりたいことをやれていました。だから辞める気はなかったんですけど…神戸だったんで、いよいよ来ますね、1995年1月17日。阪神淡路大震災です。そこで人生観が変わったんです。
定年後に、と考えていた宿業
震災をきっかけに繰り上げて開業
重久
当時、かなりとほ宿に行くようになっていたので旅に関わる仕事をしたいなっていうのはおぼろげながら出てきていたんです。でもそれは当時の仕事を終えたら。定年退職してから北海道に移住して宿をやったら楽しいだろうなと思ったんです。そこに震災が来て、それまでの日常が非日常にひっくり返りました。
―地震とその後の火事でも大きな被害がでましたね。
重久
僕が住んでいた会社の寮は無事だったんですけど、震災後は焼けた町を通って通勤していました。それである時、お寺にこれから使用する白木の箱がたくさん置いてあるのを見たんです。中には子ども用の小さいものもあって。この箱を使う子どもたちは未来がいろんな方向に向かっていたと思うけどここで終わってしまった。僕は今やりたい仕事はさせてもらっているけど本当にこれでいいのかなって考えたら、がぜん民宿をやってみようっていう気になって。
―好きなお仕事をされていたのにも関わらず、そう思い立ったんですね。
重久
順位付けが変わったのかな。はっきりとした理由はわかりません。翌年、仕事の区切りがついたのを機に会社を辞めて北海道に来ました。96年の10月です。
―そうでしたか。住む場所はどうやって探したんですか?
重久
震災後に北海道で宿をやると決めてからは、年に6回くらい北海道に行って住む場所を探していたんです。会社では「あいつ絶対北海道に恋人がいるんだよ」とか言われたりしましてけど(笑)。
―あはは。
重久
道北が大好きだったので、もっと北のエリアで開業しようと目星もつけていたんですけど、将来家族を持つことを考えたら病院とかにも行きやすい場所がいいかなと思って。もう少し街に近くて、でもいなか暮らしができる所を探そうと。
―宿をやりたいと思って移住を決意していらっしゃるので、集客に都合のいい場所を選ぶのかなと思ったのですが…。
重久
宿をやりたい、が先だったんですけど、自分の望むライフスタイルをどこで実現できるかを考えたんですね。だから探していたのは「ここで宿をやればお客さんが来る!」、という観光地ではなく、あくまでも自分のライフスタイルを確立できる場所。そういう意味でこの空知エリアはいいなと思って。この辺の自治体を全部まわってみたんです。宿をやりたいんですけどって、説明しながら。そうしたら、どこに行っても「ぜひ来てください」って言われて。ある町なんかは、住宅も当座の仕事もあっせんするからって。
―すごい! それはよかったですね。
重久
その中で唯一、うちの町に来ても全面的には協力できないよってはっきり言った町があったんです。なので、そこに決めました(笑)。
―え、えー?
重久
雨竜町ですね。
―なんでそんなへそ曲がりなことを(笑)。
重久
来てくださいって言われるのはうれしかったんですけど、いろいろ助けてもらうと自分が考えていることを言い出しづらいだろうなって。あと町の観光資源である雨竜沼湿原のことは以前から知っていましたしね。「とらべるまん」には「秘境」って書いてあった(笑)。放置してくれるので自分がやりたいようにやれるかもしれない。かつ秘境、雨竜沼湿原がある。それで雨竜町に来たんです。
―確かに雨竜沼湿原は、ほかの道内の観光地に比べると知名度は低いかもしれませんが、山を登った先に広がる湿原は幻想的で、特にお花の時期は見事ですよね。
重久
秋の草紅葉も人気ですよ。
―宿のある場所は周囲には田んぼが広がっていて、米どころの雨竜町らしい場所です。
重久
紹介されて9月にここを見に来たんですけど、建物自体はボロボロで住みたくないなっていう感じで(笑)、しかもコンクリートブロック造りなので改修もしづらい。でも目の前の田んぼでは青空の下で稲の穂が黄色くなってて、その奥には深川の山が見えて。この風景はありだなと思って。それで、ここで宿をやろうと決めたんです。
―どう直すかはあとで考えようと?
重久
建物の寸法は測ってあったので、自分でCAD(コンピュータの設計ツール)を使って図面を引きました。何しろ元々設計をやっていたので。
―それまでの経験が役に立ちましたね! 建てるのは地元の工務店さんにお願いしたんですか?
重久
実は雨竜で暮らしはじめて最初の3年間は就職して働こうと思っていたんですよ。全く知り合いもいない場所だったので、まずはコミュニティ作りをしようと。それで勤めたのが近隣の町にある民間の職業訓練校。板金や建設業などの社長さんの団体だったんです。ここで知り合った人たちにいろいろ聞いて、大工さんも紹介してもらって建ててもらいました。
―いい所に勤めましたね!
重久
勤めはじめた時は何も考えてなかったんですけどね、これがすごく助かりました。
―建物の中はだいぶ変えたんですか?
重久
中古に手を入れるなら徹底的にやった方がメンテナンスの回数も減って結果的にコストが安くなると言われて、中は全面的に変えました。本当は古い建物を壊して建て直したかったんです。でも地域の方がこの建物がなくなるのが寂しいって言ってるって聞いちゃったんで、とにかく外側は残そうと思ったんです。ところが後日よくよく話を聞いてみたら、ここに何もなくなるのが寂しいっていうことで、建物自体は何かあればよかったみたい。
―あはは。
重久
いろいろと失敗のような気もしてるけど、こうやってバカ話として披露できるからそれもよかったのかなって(笑)。宿をやる場所も、もし、最初に札幌に住みながら探したら、道北でも大丈夫と思えたかもしれない。僕はいきなり来た場所で宿をやろうとしていたので、失敗だったかもしれませんが、失敗とも言い切れないのが、この町の人ですね。アツい人が多くて、だいぶ助けられた部分があります。
―来年で20周年ですね(5月1日にイベント開催)。
重久
ここは僕自身の「ふるさと」づくりでもあったと思います。「ふるさと」っていうのは昔特急に乗って遊びに行ったいなかのイメージ。ここが都会から来るお客さんにとっても「ふるさと」になればいいなと思います。僕は旅のプロでもないし、宿のご飯も家庭料理で何も変わったことをしていない。普通に息をするように生活をするように宿をやりたいと思っています。
日本酒を多くの人に楽しんでもらおうと
唎酒師の資格を取得
―こちらで日本酒の提供を本格的にはじめたのは2013年頃からと伺ってますが、何かきっかけがあったんですか?
重久
新十津川町にある「金滴酒造」とのコラボで、うちの宿名をつけた純米大吟醸を造ったんです。それまでは普通にお客様にお酒を持ち込んでもらっていたんですけど、そのコラボしたお酒を宿で1本売りするようになったんです。
―そうだったんですね。
重久
旅人時代にたまたま行った宿でお客さんのひとりが持ってきたお酒がめちゃくちゃおいしくて。どこの酒だろうと思ったら金滴のもので。実際に酒蔵にも行って話を聞いたりしているうちに町の開拓に紐づく酒蔵の成り立ちの話など…いろんなエッセンスでもう惚れちゃいましたね。何かあれば金滴の酒を持って行っていたし、杜氏の方にもよくしてただいて。実は雨竜町に決めたのは新十津川町が近いっていうのもありました(笑)。どうせ移住するならいつもおいしいお酒を飲みたいなと思って。
―いろいろな意味でターニングポイントとなったのが金滴のお酒との出会いだったんですね。
重久
ここに住みはじめたら地元にもお酒の好きな人が多くて。日本酒会が発足してうちで宴会をしてくれるようになったんですよね。それで近隣の酒屋さんでお酒を見て歩くうちに、おいしいお酒を宿のお客さんに提供できたらいいなと思って。日本酒は管理方法によっても味が全然変わってくるので、うちできちんと管理しておいしいものを飲んでもらいたいなと一升瓶を立てたまま入れられる冷蔵ケースを買ったんです。
ー唎酒師にはいつ頃から興味を持っていたんですか?
重久
お酒をみなさんに提供するようになってから、資格を取って安心して飲んでもらえる状況を作れば、もっとみなさんに楽しんでもらえるんだろうなって思ったんです。
―そうなんですね。
重久
唎酒師の資格を持つお客様が泊まられた時にいろいろお話を伺ったのをきっかけに、試験の前にまず講習会を受けることにしたんですが、申し込みをしたらがーっとテキストとDVDが送られてきて。こんなにやんなきゃいけないの?って。4次試験まであるんですよ。
―えー!
重久
1次試験ではお酒以外の、例えばチーズとかコーヒー、シガーの知識まで問われるような食に関する筆記試験。2次は歴史から味わいまで日本酒全般の筆記試験。3次は官能試験(テイスティング)で4次は企画立案。
―企画立案!?
重久
例えば自分が居酒屋の店員だったとして、あるお酒をどう売っていくか。キャンペーンのターゲットや料理、酒器なんかも考えるような。
―いやー試験の範囲が広いですね! この試験は1回で…?
重久
おかげさまで。
―唎酒師の資格を取る前と取った後ではお客様への提供の方法に変化はありましたか?
重久
だいぶ変わりましたね。以前はおちょこの下にお皿を敷いてお酒をたーっぷり入れて「もっきり」(グラスから皿や升にあふれるまで注ぐ方法)ってやってたんですけど、香りのことを考えるとグラス類を変えた方がいいなと思って今は2種類のグラスで提供しています。香りをより感じられるものと、それ以外のものと。あと保存する温度帯はより細かく見るようになりました。
―知識を生かしていますね!
重久
あと資格を持っていると酒屋さんもそれなりに対応してくれる(笑)。
―はは。いろいろな意味で唎酒師になってよかったですね。
重久
そうですね。いろいろな勉強会も用意されていて、香りや味の表現の基準を知ることもできましたし。でもやっぱり僕が唎酒師の資格をもっていると言うと「じゃあ飲んでみようかな」っていう動機づけになるんじゃないかな。日本酒が好きなお客様はもちろん、興味はあるけど、どういうお酒を飲んでいいかわからなかったっていう人にも、こういうのあるんですけどって出せるので。日本酒はだんだん飲まれなくなっているんですけど、もしかするとそこから広がりがあるかもしれない。
―ご自身が宿で飲んで日本酒が好きになったように、ですね。
重久
それが僕の原点になっているので。
―2017年に醸造を開始した上川大雪酒造の杜氏の方と地元の農家を重久さんが引き合わせたことで生まれたお酒があると伺っています。
重久
「雨竜彗星」ですね。雨竜で造っている彗星という品種の酒米を使ったお酒です。上川大雪で使用している原料のお米は農家さん指定なんです。ラベルに原料のお米の産地を示すアルファベット文字があるんですが、URは雨竜町産という意味。で、雨竜町からのお米と言ったら、僕が紹介した農家さんのお米を使っているお酒なんです。
―「造った人の顔が見える」お酒ですね。
重久
そうなんですよ。そこの杜氏さんは昔、金滴酒造にいた方なんですが、「原料のお米を超える酒は造れない」とよく言っていて。お米の味を引き出すことはできるけど、超えることは絶対にできない。だからいいお米じゃないといい酒は造れない。そういうお米を作っている農家さんを自分の目で見て決めてるんですよね。
―飲みたくなってきました!
重久
雨竜町は米どころで、道の駅のネットショップで一番人気があるのも、ふるさと納税の返礼品で一番最初になくなるのもお米。そのお米をおいしく作れているのは雨竜沼湿原や暑寒別岳の恵みだという話をすれば、うまく観光にも結び付けられるんじゃないかなと思っています。
2019.10.29
文・市村雅代