「常に何かにチャレンジ。
大変な分だけ楽しいことがある」
民宿 風の子
飯村大二郎さん | 東京都出身。子どものころからアウトドアスポーツ好き。特に海でのアクティビティが好きでヨットやダイビングを楽しんできた。現「白馬風の子」宿主の大畠俊昭さんと1985年に宿を開業。以降、東京で不動産や建築、内装関係の仕事をする傍ら夏の3か月間だけ斜里で暮らし、宿を営業している。父親の影響で小さい頃から将棋を指してきたが、斜里に来てから囲碁も覚え「3段くらいの腕前です」。 |
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避暑のための家を斜里で購入する予定が、宿開業を目指す青年と出会い民宿を開業することに。以来、夏の3か月間だけ開業するスタイルを34年間続けている。アウトドア好きという自身の趣味もあり、近隣のスキー場で行う初心者OKのパラグライダー体験や斜里の自然を海から楽しむゴムボートツアーを宿泊者向けに実施している。営業期間は7月~9月24日。
夏だけの田舎暮らしから
宿開業へと方向転換
―この宿はとほ宿の「白馬風の子」(長野県白馬村)大畠俊昭さんと一緒に立ち上げたんですよね?
飯村
そうです。そもそも私は夏に東京から避暑で来て住める場所を探していたんですけどね。34歳くらいのときにちょっと時間ができたので、夏の3か月間バイクで北海道をまわったんですよ。それまで忙しくて全然旅行もできなかったから、奥さんに行って来てもいい?って聞いたらいいよって言ってくれて。ラッキーって(笑)。それで、道内をまわっているうちに夏の北海道はいいなぁ、暮らしたいなぁという気持ちが強くなって、途中からは来年どこに住もうかなっていう場所探しの旅になったんです。
―斜里に決めたのはどうしてだったんですか?
飯村
当時ウィンドサーフィンをやっていたので、とりあえず海があるところがいいなと思って。あと魚介類が好きだから漁港があって新鮮な魚が手に入るところで、温泉も…。
ーいろんな希望があったんですね(笑)。
飯村
あと、山間の地域だと東京同様視界が遮られる気がしたので、だだっ広く前が開けているところがいいなぁと思ったんですよね。それらを組み合わせていくと何か所か候補があったんだけど、その中でも一番斜里が気に入ったってことかな。
―一緒に宿を立ち上げた大畠さんとはどう知り合ったんですか?
飯村
夏に北海道を旅行をした半年後、冬にまた北海道に行ったんですけど、その時宿でたまたま彼と相部屋になったんです。それで、まだ場所の当てがあったわけではないんですけど、夏に住む家を斜里で買うんだっていう話をしたんですよ。一方彼は宿業をやるためにずっと宿や飲食店で働いて準備してきていたんですよね。すでに白馬で宿をやることは決まっていたようですが、私が斜里で家を買うと話したら、じゃあその家を使って1年一緒に宿をやろうということになって。5月に斜里で再会して、それから場所を見つけて保健所の手続きをして開業したという感じです。
―じゃあ飯村さんのほうは宿を開業する予定はなかったんですね?
飯村
そうですね。ただね、バイクで旅をしているときにいまのとほ宿みたいな宿やユースホステルに泊まって、宿業はおもしろそうだなとは思っていました。
―大畠さんと最初に会った時一緒に過ごしたのは何日くらいだったんですか?
飯村
たぶん2日くらいじゃないかな。
―…誰かと何かをはじめるときに、「この人と一緒にやっていけるだろうか」とか考えると思うのですが。
飯村
そういうことは考えなかったですね。ただ彼のほうがやはり、民宿を開くということをリアルに考えていたとは思います。どれくらいお金がかかるかとか。開業資金はふたり合わせて50万円だったと思います。
―それで足りたんですか?
飯村
足りましたよ。開業した時は布団もなかったけど(笑)。お客さんが入る段になって、布団がないって気が付いて、近所の民家から布団を貸してもらいました。
ーはは。割と緩やかにはじまったんですね。
飯村
そうですね。7月にオープンしたんだけど、オープン直後は全然お客さんが来なくて大畠君がパンフレットを作って斜里駅に配りに行ったんですよ。当時は斜里駅にお客さんがバンバン到着して、そこからみんなバスに乗って知床方面に向かって行っていたので。でもただ配っていたんじゃみんな受け取ってくれない。まだとほの本もなかったし、どうやって新規の宿を宣伝したらいいかって考えたんです。それで「カムイワッカ湯の滝」で麦茶を無料で提供することにしたんです。
―「カムイワッカ湯の滝」はいまは入浴はできませんけど、当時は温泉としてみなさん利用されていたんですよね。
飯村
そうですね。当時は温泉としてすごく人気がありました。ただ、湯上りでのどが渇くんだけど、あの辺には飲める水がなかったんです。それで「民宿風の子」っていうのれんを作って麦茶を配りに行ったら、みんな飲ませてくれって来て。それでパンフレットを渡していったんです。
―温泉で麦茶サービス! やりますね!
飯村
麦茶を配り終えて帰りに宿に電話を入れたら、大畠君がすぐに帰ってきてくださいって言うんです。ちらしを受け取ったお客さんがいっぱい来ているからって。それから、カムイワッカで宣伝した日は満室状態。
ー宣伝作戦が大当たりしましたね。
飯村
まさかそんなに効果があるとは思わなかったけど(笑)。
―それは開業してどれくらいのときですか?
飯村
すぐだったと思います。
ーじゃあ割と順調な滑り出しだったのかな。
飯村
そうですね。
―当時もいまと同様に夏だけの営業だったんですよね? お客さんが来るようになっていたのに…。
飯村
私は東京に家があって当時子どもが5歳と3歳。妻も働いていたので夏だけ私が単身赴任で来る形でした。
―大畠さんとは何年くらい一緒にやっていたんですか?
飯村
1年ですね。最初から彼は白馬のほうでやるということになっていましたから。
―大畠さんが抜けた後はひとりで宿をやることになったわけですね?
飯村
初期はユースの方法でお客さんに食器の片づけを手伝ってもらったりしていました。
ーなるほど。
飯村
あとたまたま来てくれたヘルパーさんが料理上手な人だったり、某ユースの名物チーフヘルパーだった人がヘルパーで来てくれた時は、その人を慕ってお客さんがいっぱい来てくれたり。人に恵まれましたね。
―宿名は大畠さんが「宿をやるならこの名前」と決めていたものをつけたとお聞きしました。そこは飯村さんのこだわりはなかったんですか?
飯村
私はバイクやウインドサーフィンが好きだったから「風つながりでいいな」と(笑)。
趣味を生かし、知床の自然を
楽しむ体験ツアーを実施
―こちらに来て、実際ウインドサーフィンはしたんですか?
飯村
斜里の海と屈斜路湖でよくやりました。子どもたちも夏休みになると東京から斜里に来ていたので一緒にやったりしましたよ。
―いま宿ではパラグライダー体験コースや知床半島を海から見るゴムボートツアーを実施していますよね。
飯村
パラグライダーを私がはじめたのは平成元年(1989年)ですね。
―宿をはじめてからですね。
飯村
そうです。その年に、直線飛行ができるという初級ライセンスから、どこでも飛行できるパイロット証までを一気に取得しました。
―宿開業から5年目に資格を取られたというのは、ある程度宿の経営も安定してきたからですか?
飯村
元々ここに夏来ることを決めたのは、避暑に加えてそういうアウトドアライフも楽しみたい、脱都会的な生活を楽しみたいというのがあったんです。
―パラグライダーは元々やってみたかったんですか?
飯村
そうですね。実はセスナに乗りたいと思っていた時期があるんです。でもセスナを操縦できるようになるには日本では非常にお金がかかる。アメリカに行くと少し安く学校に通えるかもしれないけど、今度は言葉の壁があったりしておいそれとは実行できないじゃないですか。それでセスナはちょっと諦めていたんですけど、平成元年ころになるとだんだんパラグライダーが身近な存在になってきたんです。これだったら私のお小遣いの範囲内でできるなと思ったんです。
―「お小遣い」の感覚が大人ですね! ウインドサーフィンもされていたし、結構趣味にお金をかけていらしたんですか?
飯村
ウインドサーフィンは当時勤めていた会社の仲間と一緒にやっていたんです。みんなで割り勘で船を買って。
―船まで持っていたんですか!
飯村
バブル景気の恩恵か、当時は一介の労働者でもレジャーを満喫できる余裕があったんですね。時代に感謝しています。
ー奥さんは何も言わなかったんですか?
飯村
奥さんは私が何をやっても文句言わないからね。自分もひとりで北アルプスに登りに行くような人だし、僕も自分の稼いだ範囲内でやってましたから。だからパラグライダーをはじめてからバイクはあきらめましたよ。パラグライダーは旅費がかかるんですよ。東京からだと飛ぶたびに伊豆半島に行ったりしないといけない。それでオフロードとオンロードのバイク2台を手放しました。
―そうやって取得した資格を生かして、いま宿でも体験を行っているんですね。
飯村
近所のスキー場の斜面で行っていますが、昔よりも装備がよくなったので、斜度がなくても飛べるんです。オートマチックになったというか(笑)。
―初心者でも安心ですね。
飯村
大きな空中ブランコに乗っているようなもんですよ。昔はそんなに飛ばなかったので拡声器で十分だったんですけど、いまは無線機をつけてもらって指示しています。
―ゴムボートでのツアーはいつからはじめたんですか?
飯村
ことしで13年目になるのかな。7人乗りのゴムボートでのツアーです。
―これも操縦するために、何かしらの資格は必要なんですか?
飯村
そうなんですよ。二馬力以上の船外機がある船を操縦するには免許が必要なんですよね。
―ゴムボートの免許はなぜ取ろうと思ったんですか?
飯村
知床が世界自然遺産に登録されたころ、カムイワッカ湯の滝に入れなくなったんです。宿的にもカムイワッカに行って温泉に入るっていうのがひとつのイベントだったんですけど…。
ーいまは足元だけ浸かるという感じですね。
飯村
だんだん知床の自然を楽しむのに、陸からのアプローチだけでは足りなくなってきたなと思って海からのアプローチを考えるようになったんです。元々海が好きなんですよね。もぐったり泳いだり。スキューバーダイビングのライセンスも持ってますし。でも船を持つのは、例えば留めておくスペースにしても場所探しや経費的にも大変。それで車に積めるような、自分の家に置けるような船があればって調べてみたら、ゴムボートがあった。しかも意外に定員が多くて7人乗りがあったったんですよ。普通の船で7人乗りというと相当高額になっちゃうけどゴムボートだとエンジンとセットで60万円くらいで買える。お小遣いの範囲内で買いたいっていうのがやっぱりあるので。
―お小遣いがやっぱり大人の金額ですね(笑)。
飯村
(笑)。それでゴムボートの免許を取ることにしたんです。海からだと知床の断崖のきれいさがよくわかるし、場合によってはクマが海岸に降りて来て魚を獲ったりするのが見えますよ。
好奇心の赴くままに
常に新しいことに挑戦
―飯村さんはほかにも趣味がいろいろありそうですね。
飯村
最近だと英会話かな。海外旅行が好きでニュージーランドにパラグライダーをしに行ったり、ネパールでトレッキングをしたりあちこち行ってましたけど、英会話はやっていなかったんです。旅先でツアーに参加したりすると参加者みんなで食事やお茶ってことになるじゃないですか。みんなが英語で会話をする中で、聞く方はなんとかわかるんですけど、こちらから意思表示となると言いたいことが伝えられなくて非常にさみしいなと思っていたんです。東京でワンコインの英会話サークルを見つけたので、昨年から東京にいる間は週に1回通っています。あと3年くらい前は韓国語を半年習っていました。一応読み書きができるようにして、韓国一周旅行に行ってきました。
―韓国語を習うきっかけはなんだったんですか?
飯村
宿のお客さんで韓国語を勉強して何度も韓国に行っている人がいて、触発されたんです。そんなにおもしろいんだったら、私もやってみようかなと。
―英語はアルファベットが見慣れているからまだいいですが、韓国語は文字や単語になじみが薄いので大変そうに感じます。
飯村
その通り。英語は単語もすでにいくつかは自分のボキャブラリーにありますからね。韓国語は簡単な、例えば「カレンダー」とかそんな単語をイチから覚えないといけないので大変だなと思いました。
―それを覚えたんですか?
飯村
覚えないで、あらかじめ使いそうなフレーズを予測して文章だけ作っておいています。単語は必要になったらその場で辞書で調べて、入れるだけ。そのほうが応用がききますから。
―確かに!
飯村
ただ韓国語には子音で終わる独特の発音があって、それができていないと全然違う言葉になっちゃう。「水」って言ったら「コーヒー」が出てきたり(笑)。だからそこはきちんと練習しました。
―いまはその韓国語のほうはちょっとお休みして英語ですね。
飯村
韓国語は韓国でしか通じないけど、英語だったら例えばタイでも通じるから(笑)。東京オリンピックもあるし、何かに使えるかもしれない。
―元々何か勉強したりすることは好きだったんですか?
飯村
そうですね。雑学は好きですね。旅行中も現地の博物館には寄ったりします。
―囲碁の腕前もなかなかだとお聞きしました。興味の対象が幅広いですよね!
飯村
年を取ると、新しいことにチャレンジしていないとどんどん遅れて行ってしまうような気がします。だから大変だけど、常に何かにチャレンジして。その大変な分だけ楽しいことがあると思っています。
2019.7.9
文・市村雅代