「おもしろそうなことは
仕事も趣味もやってみる」
Hill Top Lodge 遊岳荘
稲田茂さん | 福岡県生まれ、神奈川県横浜市育ち。帯広市の大学に進学し、在学中の1876年に幌加内町朱鞠内にて仲間と宿を開業。美瑛の現在の場所での営業は91年から。大学在学中はブルーグラスの演奏をしており、帯広市内でライブを行っていた。大きな乗り物好きで、トラックや検診用レントゲン車の運転手として働いた経験も。 |
---|
学生時代、道内屈指の極寒の町で仲間と宿を開業。その後結婚し夫婦で美瑛に移り住み新たに宿をオープンした。丘めぐりや青い池、新鮮な野菜を使った食事など旅行者にも魅力的な場所だが、自身も登山やスキーなどを夫婦で楽しみ美瑛の生活を満喫してきた。28年前に美瑛で開催されるクロスカントリースキーやマラソンの大会を宿泊客と楽しむ「遊岳荘レーシングチーム」結成。老若男女を問わず参加可能。
極寒ゆえのハプニングを楽しんだ
朱鞠内での宿時代
―最初は美瑛ではなく、朱鞠内(幌加内町)で宿をはじめられたんですよね。
稲田
「朱鞠の宿」っていう名前でした。大学3年の時だったかな。記憶があいまいだけど最初は夏休みだけの営業で。当時ユースホステルを使って旅行をしていたので、こういう宿をやれたらいいなと思って旅先で知り合った人と2人ではじめたんですよ。
―若くして宿をはじめられて、資金は大丈夫だったんですか?
稲田
資金? 使ってないもん、そんなに。建物も50万円だったし。
―50万!?
稲田
最初はわら布団だったし。
―わら!? 「アルプスの少女ハイジ」みたいですね。
稲田
レアだよね(笑)。全然あったかくないんだよ、重くてさ。
―どこで手に入れたんですか?
稲田
買った家に元々あったんじゃないかな。
―朱鞠内では何年くらい宿をやっていたんですか?
稲田
…何年だっけ?
朋子
知りません(笑)! 私がいたのは1年。
―え! おふたりはいつからの知り合いなんですか?
朋子
知り合ったのは宿をやる前ですね。礼文島のユースホステルで知り合ったんだけど、当時私は東京に住んでいてこの人は帯広の大学に通っていて。遠距離だったから続いたのかも(笑)。この人が大学を卒業してから結婚して、1年くらい一緒に朱鞠の宿をやっていました。
―じゃあ学生生活4年終わってから…。
稲田
いや、4年じゃなくて1留(年)、1休(学)したので…(笑)。あ~恥ずかしい…。
―はは、じゃあ人よりちょっと大学時代を長めに過ごしたあとは就職せずに、宿業で食べて行こうと考えていたんですね?
稲田
…何も考えてなかったなぁ。おもしろそうっていうだけで。
―朋子さんはおつきあいされていた人が宿をはじめるのを見てどう思っていたんですか?
朋子
いや別に何も…(笑)。私は私でその間に好きな仕事を見つけて就職したりして、あんまり結婚したいとも思ってなかったので。
―お仕事は宿や旅に関連していたんですか?
朋子
旅行業です。
―じゃあ宿業に興味がないわけでもなかったのかな…。
朋子
そうですね。でも、大学を卒業してから旅行に携わる仕事がしたいと思って専門学校に入りなおして…って努力して就職した先だったし、すごく学べることがあったから辞めることはあまり考えてなかったです。
―なるほど。
朋子
でも勤めてから1年半くらいしたときに、体調を崩して1か月くらい入院して、ハタと気が付いたんです。会社はお金はくれるけど体を治してはくれないんだって。そこで少し考え方が変わったかな。いつまでも会社に依存してても…って、思ったんでしょうね。
―一方でお付き合いしていた人は自由にやってるし。
朋子
よかったんだか悪かったんだか(笑)。
―ご結婚された後は、稲田さんと一緒に宿をはじめた方と朋子さんと3人で朱鞠の宿を運営していたんですか?
稲田
そう。
朋子
朱鞠内って今よりもっと雪が多くて寒かったんですよ(※幌加内町では1978年にマイナス41.2度を記録)。当時は町にレコード店も本屋さんもなくて。それで1年経ったら別の場所に引っ越そうっていうのは決めていたんです。
―朱鞠内の暮らしはどうでしたか?
朋子
地元で仲良くしてくださる人がいて釣りに行ったり、キノコを採りに行ったり。お味噌汁を作ってからその辺に具を探しに行く、みたいな感じですごくおもしろかったですよ。でも冬は生活するのが大変でした。
稲田
マイナス40度だもんな。
―逆に体験してみたいですけど。
稲田
たまにならいいんだけど、毎日となると…。建物も古かったし。車のバッテリーも毎朝上がって、一般車がほとんど通らないところだったから、除雪車に充電お願いしていたもんな。
―あはは。そもそも、どうして朱鞠内で宿をはじめたんですか?
稲田
どうしてだろうね。どうせやるなら寒いところって思ったのかな。そのほうがおもしろいじゃない(笑)。
朋子
家の中で雪が解けないんですよ、ストーブついているのに!
―えー!
朋子
朝、スクランブルエッグを作ろうと思ってボウルに卵を1個溶いて、2個目を割り入れようとするともう1個目が凍ってるの。家の中でですよ。
―瞬間冷凍ですね!
朋子
平屋の町営住宅に住んでいたんだけど、そこが雪で全部埋もれちゃうんです。
稲田
屋根の雪を屋根より高いところに捨てるんだよ!
―豪雪地帯の暮らしってそんな感じなんですね…(笑)。
稲田
朱鞠内の時代は、「寒い」っていうだけでいろいろ話があるよ(笑)。
美瑛での暮らしがスタート
自然環境を生かし趣味も様々に
―ご結婚から約1年後に、稲田さんと朋子さんは朱鞠内を出られたんですね?
稲田
そうだね。朱鞠の宿は相棒がその後もしばらくやっていました。
朋子
次の宿の場所は、最初十勝で探したんです。この人が大学時代を帯広で過ごしたので、友達や知り合いもいたので。…私が話しちゃっていいのかしら?
稲田
記憶があいまいなのでお願いします(笑)。
朋子
2、3年かけてゆっくり場所を探すつもりで清水町に部屋を借りたんです。この人はトラックの運転手のアルバイトをして。でも夏になったら朱鞠内時代のお客さんがすっごく遊びに来ちゃたんです。同年代だったので友達みたいな感じですよ。ご飯も出したりしてましたけど、まだ宿もやってないのにお金をいただくわけにもいかず…。これじゃあうち破産するわって。
―確かにそうですね。
朋子
これでは2年も3年も待てないということになって、その年の冬に美瑛で農家の空き家を借りて宿をはじめたんです。
稲田
もうドラマの「北の国から」ははじまってたけど、まだ美瑛のあたりは静かだったね。
―当時はいまとは違う場所で宿をやられていたんですよね。美瑛も寒く、積雪量もそこそこありますが…。
稲田
朱鞠内と比べたら南国だよね(笑)。こんなにあったかい冬でいいんでしょうか?って。
朋子
当時借りていた建物は古かったからきっと寒かったんだろうけど、朱鞠内から来たら全然。
―ははは。
朋子
その家は売らないと言われていたので、いずれは別の場所に移る予定だったんだけど、実際に移るきっかけになったのが1988年の十勝岳の噴火だったんです。当時は地震は起きるし火砕流が出たとか緊迫感がすごくて。宿のあった場所は平地で近くに美瑛川があったから泥流も流れてきやすい環境で、すっごく怖かったんですよ。下の子が生まれたばかりだったし。それで次の年の夏に彼に美瑛中をバイクで走ってもらって、ここを見つけたんです。
―この場所を選んだのはなぜだったんですか?
稲田
景色がよかったんですよ。いま道路を挟んだ向かいは林になっちゃってるけど、当時はそこに何もなくて本当に山がきれいに見えたんです。
―ここは噴火の影響はないんですか?
朋子
この辺は丘で、川もないから泥流の心配はないですね。この人なかなか動かないから、噴火がなかったら出て行けって言われるまで前の建物にいたかもしれません(笑)。
―ここに新しく建物を建てることになった時、何かイメージはあったんですか?
朋子
ないね。
稲田
わかんないもんね。
―「Hill Top Lodge」なので、ロッジ風にと考えていたのかと思ったのですが…。
朋子
ないない(笑)。
稲田
完全に後付け(笑)。
ー「遊岳荘」の名前の由来はなんですか?
稲田
なんだったかな。山小屋のような宿が好きだったからかもしれないし…。
ー山小屋のような、とは?
稲田
予約がなくても泊まれるような、粗削りというか…適当な感じ(笑)?
ー山小屋好きなんですか?
稲田
いや、オレそういえば山小屋泊まらないわ(笑)! 山ではテントに泊まるもん。
ーあはは。宿名からは登山も連想しますね。
稲田
当時、山歩きが一番好きだったのかもしれないな。
朋子
あなたは高校時代から山に登っていたんじゃない?
稲田
そういえば登ってたね。横浜に住んでいたんだけど、山好きな友達がいて、毎週一緒に丹沢に行ってましたね。
―毎週?
稲田
ほんとに毎週行ってました。丹沢だけ登ってた。こっちに来てからは日高なんかも登ったな。
―それは帯広にいた学生時代ですか?
稲田
いや、美瑛に引っ越してきてから。帯広時代はあんまり運動らしい運動していないね。当時は音楽…ブルーグラスをやってたくらいかな。バンジョーとかを使って演奏する音楽。
―すごくテンポの速い音楽ですね!
朋子
私はフォークソングの世代で、高校時代にベースをはじめたんです。で、結婚したら相手がブルーグラスをやっていたのでじゃあって、昔は一緒に演奏したりしていました。ブルーグラスってコードが3つしかないので、ちょっと合わせるだけなら簡単なんです。
稲田
ちゃんとやろうと思ったらすごく難しいよ(笑)。最近は全然弾いてないね。お客さんにもバンジョーは「オブジェです」って言ってる。
朋子
ちゃんと練習して弾けばいいんだけど。老化防止にもよさそうだしね(笑)。
―おふたりは旅行とか音楽とか、趣味が似てますね。
稲田
おもしろそうなことはなんでもやってみる。つまんなかったらやめる(笑)。
朋子
ゲレンデスキーとか山登りはこっちに来てからやるようになりましたね。
稲田
カヌーは抵抗していたじゃない。
朋子
水が怖くてね。それで、カヌーやるにはまず水泳だと思って習いに行って泳げるようになりました。この人のおかげでいろんなものに触れられました。
―いいご夫婦ですね~。
稲田
次はダイビングだよ! この間体験ダイビングをやってはまったんです。那覇マラソンに合わせて沖縄でライセンスを取りたいな…。
―山から海まで幅広いですね~。遊岳荘と言えば「レーシングチーム」ですよね。最初は車関係のチームかと思いましたが、美瑛で開催されるクロスカントリースキーの「丘のまちびえい宮様国際スキーマラソン」やハーフマラソンの「丘のまちびえいヘルシーマラソン」に出る際のチームなんですよね。元々クロカンやマラソンがお好きだったんですか?
稲田
最初は別に好きじゃなかったんだけどね。
朋子
いまは全然そんなことないんですけど、息子が小学校1年生のころ、ちょっと気が弱かったので、いろいろやらせてみようということになって。
稲田
よし、「宮様スキーマラソン」に出ようと。
朋子
仲間やお客さんと一緒に出はじめたんだと思います。当時はそこまで本気じゃなくて、この人とお客さんはビールを背負って走ったりしていたんですけどね。
稲田
息子にはいきなりレースに出るぞって。大会当日にスキーを履いてじゃあスタート地点に行こうって言ったらいきなりステン(笑)。圧雪したところで歩くスキーを履くのがはじめてだったからつるつるで前に進まないって言って。大会のコースは21キロもあるのに、まだ2センチも進んでない(笑)、どうしようって。
―あはは。完走できたんですか?
稲田
仲間は完走しましたが、息子は10キロくらいまでかな。
―すごいじゃないですか。
稲田
オレももういい加減いやになって、「息子がダメそうだからオレもリタイヤするわ」って。
―渡りに船だったわけですね(笑)。
稲田
本当にほっとした(笑)。
―でもそれがもう28年続いているんですよね。
稲田
そうなんですよ、クロカンはやってみるとおもしろいんですよね。
―どの辺がおもしろかったんですか?
稲田
スピード感が普通のマラソンよりあるし、テクニックを使うのがおもしろい。平地と下りと登りって全然テクニックが違うんですよ。最初はボロボロだったんだけど、最近は結構上位に入っているんです。いまはフルマラソンもやってます。先週も大会に出てきました。
―すごい! 言われてみれば、稲田さんスリムですよね。
朋子
走りはじめてから10キロくらいやせたの。
―走りはじめたのはいつなんですか?
稲田
ランニングは50歳の時。雪がなくて宮様スキーマラソンが中止になった年。
朋子
クロカンができない欲求不満で。
―それで走っちゃったんですね(笑)。
稲田
そうそう(笑)。でもやっぱりクロカンのほうが好きだな。
―レーシングチームには誰でも入れるんですか?
稲田
誰でもウェルカム。
朋子
大会の申し込み用紙に所属チームを書く欄があるんだけど、そこに「遊岳荘レーシングチーム」と書いてもらえればチームメンバーです!
まず自分たちが気持ちよく過ごし
美瑛での暮らしを楽しむ
―稲田さんはいま、美瑛と首都圏を行ったり来たりの生活ですよね。
稲田
東京で別の仕事をしています。診療放射線技師なんです。
朋子
息子が3歳の時に学校に入りなおしたんですよ。保育園1年生とこの人の1年生が一緒。
―改めてその職に就かれたのはどうしてだったんですか?
稲田
それはちゃんと理由があるんです。これは覚えています(笑)。最初はバイトだよね。
朋子
お客さんから、北海道の健診ツアーの運転手をしてくれる人はいないか?って言われたんです。宿が暇な時期だったんで、「じゃあオレやるわ」って。
―何日くらいのツアーだったんですか?
稲田
2か月以上。
―結構長いですね!
稲田
それが楽しかったんですよ! 毎晩宴会で(笑)。
ーはは。
朋子
北海道中を運転してね。2年くらい続けて運転手として働いた後、その会社の人から放射線技師の資格を取らないかって言われて。でも放射線技師って3年間学校に通わないと国家試験が受けられないんです。だから学校に行くことにするまでは悩んだよね。経済的な問題もあったし、当時は北海道にあんまり学校がなくて、行くなら実家から通える東京の学校に行くことにしていたので、学生の間はほとんど家にいないってこともある。でも資格は取った方がいいだろうということになって、それから受験勉強をはじめて。
稲田
えらいでしょ(笑)。
―そもそもの動機が軽やかでいいですね。「楽しかったから」って(笑)。
朋子
私たちの人生ってあんまり深刻になることがないのかもね。
稲田
この後深刻になるかもしれない。
―もう深刻になれないと思います(笑)。学校では高校を卒業した年代の方たちと一緒に勉強したんですよね?
稲田
そうです。
朋子
18歳くらいの子たちですから、授業中もすごくうるさかったんですって。でもこの人は真剣でしょ、生活かかってるから。「静かにしなさい!」ってどなったら、先生までしーんとしちゃったって。
―あはは。ご自身が大学生の時とはだいぶ違う感じですね。
稲田
全然違うね。
―大学は卒業までに6年かかりましたが、この学校は3年間で卒業できたんですか?
稲田
もちろん! 成績もトップですよ!
―やる気を出せば…ですね(笑)。すばらしい! 卒業後は…。
稲田
声をかけてもらったのは東京の会社だったんですけど、そこがもう北海道の健診はやらなくなっちゃったので、東京で働くことになったんです。
―じゃあ2拠点の生活は結構長いんじゃないですか?
朋子
20年以上ですね。
―稲田さんがいない間は朋子さんがメインで宿をやってらっしゃるんですね。こちらは食事にもこだわっていて、味噌も手作りとお聞きしましたが元々お料理は得意だったんですか?
朋子
いえいえ。ひとり暮らしをしたこともないし、実家でも全然料理はやってませんでした。でも母が料理上手だったんです。母が工夫して作ったおいしい料理を食べていたのがすごく勉強になっていますね。そのレシピを受け継いで、いまもお客様にお出ししている料理もあります。とほ宿はペンションと違って食材にそこまでお金をかけられないけれど、旬の物って一番安くておいしいから。そういう物を使うようにしています。
―こちらの宿の一番のウリと言ったら何になるんでしょうか。
朋子
美瑛のおいしい野菜かな。でも野菜だけではないし…。お客様は丘めぐりとか温泉に行ったり。
稲田
富良野岳あたりはすごくお花もきれいなんですよ。
―おいしいものもたくさんあるし、遊ぶところもたくさんある。美瑛で宿をやってみてどうでしたか?
朋子
宿をやる場所としてと言うか、私たちが暮らしやすいです。お客さんはチェックインからチェックアウトまでだけど、私たちはずーっといる場所。せっかく北海道にいるのに楽しまないともったいないじゃないですか。住んでいる人が気持ちよく暮らしていれば、お客さんも来るんじゃないかなと思います
稲田
いまね、玄関の横にハンモックをつるそうかと思っているんですよ。
―いいですね~。
2019.6.25
文・市村雅代