「宿での思い出は、お客さんと
僕が半分ずつ持っている」
FIELD INN 星観荘
新山彦司さん | 北海道出身。実家は礼文島の網元で、親が多忙だったため兄弟3人それぞれに乳母がいた。東京の高校に進学したが約6年後にUターン。1981年に島で宿開業。これまでトライし「極めなかった」趣味は、ウインドサーフィンやカメラ、バイクに日本舞踊の花柳流など多数。一方、ギターと歌は中学時代から続けており、20代から大好きになったスキーはインストラクターをする腕前。とほネットワーク旅人宿の会の初代代表。 |
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東京で学生生活を送っていたが、Uターンして地元礼文島で宿を開業。まだとほ宿のない時代に、ユースホステルと民宿を融合したような独自の宿スタイルをつくり上げていった。年齢が近い宿泊客との時間があまりにも楽しく、宿を閉めている冬期も遊べるようにと、長野県に12年間その拠点を設けていた。20年前に船泊港近くから日本最北限の岬、スコトン岬の先端近くに移転。目の前に眺めを遮るものはなく、広い空が夕焼けから星空へ、そして朝焼けへとダイナミックに表情を変えていく様を堪能できる。営業期間は4月25日~10月31日。
フォークコンテストで全国5位に。
自分の限界を知り島に戻り宿を開業
―新山さんは宿のある礼文島のご出身ですよね? 出身地で開業したとほ宿主は唯一ではないですか?
新山
そうですね、ちょっと異端児です(笑)。
―最初から礼文で宿を、と考えていたんですか?
新山
いや、実は高校から東京に出ていたんですよ。当時は高校が島になかったからなんですけど、島を出るときは「こんな島、二度と戻ってきたくない」と思っていました。
―えー…。
新山
だって、どこに行っても同じ景色で、どこに行っても同じ顔しか会わないんですよ。ちょうどラジオの深夜番組で「オールナイトニッポン」とか「セイ!ヤング」とかがはやっていた時代で、いろんな情報が入ってくるわけ。でも、実際に礼文ではできないの。
―うーん、確かに。
新山
そもそも、親父からは高校にもやらせないって言われていたんです。親父は兄と弟には「勉強すれ、勉強すれ」って言ってたけど、僕には言ったことなかった(笑)。漁師に勉強はいらないからって。
えみり
お父さんは彦さんを漁師の跡継ぎにって思っていたみたいです。
新山
兄はすごく勉強ができたから中学から島を出ていて、夏休みになると都会の空気をまとった友達を連れてくるわけ。兄のギターを弾く姿も、かっこよくてね、その影響で自分もギターをはじめて、結果的には勉強もしないでギターばっかりやってたんだけど。だから勉強したいから、ではなくて、島を出るために高校に行きたかった。そうしたらお袋が親父に、彦司がかわいそうだから高校にやらしてくれって頼んでくれて。あれはお袋にすごく感謝してる。あれがなかったら、いまの僕はないな。
―東京を選んだのはどうしてだったんですか?
新山
兄が東京の大学に通っていて、僕が別の所に行くと余計にお金がかかるからって。でもさ、15の春よ。初めて東京に着いたら、迎えに来てるはずの兄がいなくて、上野駅にひとりぽつんと。で、電話したら「にっぽり」方面行きの電車に乗って来いって言うんだけど、「日暮里」なんて読めないでしょ!
―あはは。じゃあそうやって東京での生活が始まったんですね。
新山
大学のときは銀座の楽器店で働いていたんだけど、フォークコンテストがあるって聞いて、ギター2本に僕がボーカルのグループで出たんです。
―どういうコンテストだったんですか?
新山
日本各地のブロックで勝ち抜いてきたグループが全国大会で上位3位に入れば、中野サンプラザでフォークグループのアリスと一緒にコンサートができるというコンテスト。
―すごいチャンスですね。
新山
その東京ブロックで優勝したんです。
―すごいじゃないですか!
新山
過去の栄光ですよ。全国大会に進んだんだけど…結果は5位でした。
―惜しい!
新山
それでもう自分の夢も終わりかなと。ちょうどその頃親父の具合が悪くなって。兄弟全員東京にいたから誰かが帰らなきゃってことになったんだけど、兄貴はもう就職してたし、弟は浪人中だったかな。まだこれからって感じで。フォークコンテストの結果、仲間2人は地元に帰ってしまったし、じゃあ俺も帰るわって(笑)。でも島に戻っても漁師はやりたくなくて、それで宿をやることに。
―礼文で何か仕事を、と考えたとき、宿以外の選択肢はなかったんですか?
新山
宿か漁業関係以外だと、あとは役場とか漁業組合とかだね。でも人に使われるのイヤなの(笑)。
―じゃあ宿主はベストな選択だったんじゃないですか?
新山
実は、楽器店でなんとかやれていたのは上司がすごくいい人だったから。でもその人が辞めちゃって、急に上司が変わったことも島に帰るきっかけだったかな。ともかくいろいろなことが重なって、21歳くらいで帰って1年準備をして、22歳で家を建てて宿をはじめました。
―すごいですね!
新山
すごいでしょ(笑)。礼文だからできたんだけどね。大工の叔父が建ててくれたし。うまい具合に道路の立ち退きがかかったりして資金のめどが立ったんです。
―今の場所とは違うんですよね?
新山
当時は船泊港から歩いて1分のところ。まだ22、23歳で右も左もわからなかったけど、ユースホステルと民宿の中間みたいな宿ができればいいなとは思ってました。ユースは夜みんなでワイワイやってて、これからって時に「はい、消灯です」って。そういう規律がいろいろあるのがいやで。民宿は規律はないけど、ユースみたいな交流がない。それで、それぞれのいいところを取った宿のカテゴリーを、自分で「プレユース」って名付けたんです。宿名は礼文島を舞台にした大江健三郎の小説「青年の汚名」から取って「プレユース 青年の汚名」はどうかなって。
―宿名が「青年の汚名」?
新山
まわりからも非難轟々(笑)。宿の名前が「汚い名前ってなんだ」って。それで兄がいくつか出した案にあった「星観荘」にしようってことになった。実際、星空が本当にきれいだったので。
―談話室には望遠鏡などもありましたが、星の観察は昔からされていたんですか?
新山
逆にそういうのが嫌いなタイプ。望遠鏡でのぞいて何座の何、ではなくて、空いっぱいの星を見て「きれい!」でいいじゃないですか。それで旧館時代はお客さんを夜、礼文空港に連れて行くようになった。人はいないし障害物も灯りもないから、みんな感動。本当に天球で見えるんですよ。
―説明なしで。
新山
説明なし。寝っ転がって見て、そのうち寝ちゃう人もいたな。
えみり
…ちょっと説明してなかったっけ?
新山
…ん~ちょっとしていたかもしれない…(笑)。
えみり
花と星の名前を知っていてギターを弾けたらモテるって。
―えー(笑)! なんかいろいろ台無しですよ!
新山
ま、まぁそのころはお客さんはあふれるほどいたよね。僕と同じ世代の人ばかり。
えみり
当時は仕事をしないでぶらぶらしている若い人がいっぱいいたしね。母屋以外に25畳くらいの雑魚寝部屋「ブラックホール」があったから合計で40人くらい泊まっていることもあって。
ーじゃあ宿を開けたとたんに、お客さんが押し寄せたって感じだったんですか?
新山
いや、最初予約は3本しかなかったです。
―1日目ですか?
新山
1年目。
―!
えみり
あとは港での客引きをしていたみたい。で、彦さんはそのままお客さんと一緒に遊びに行くっていう(笑)。当時のことは私は知らないんだけど、最初はお母さんが食事の準備と掃除もやって、彦さんはお客さんと遊びまわって楽しく過ごしてたみたいですよ。
新山
ビキニの女の子と浜に泳ぎに行ったりね(笑)。
―新山さんが遊んでいる間、お母さんは大人数分のご飯を作っていたんですね。お母さんは宿業に巻き込まれちゃったって感じですね。
新山
好きだったんですよ、うちのお袋も。元々うちが網元で、働いてくれていた人たちにご飯も出していたから。
―じゃあやっていることはあんまり変わらなかったのかな。
新山
そうですね。でもお袋はみんなにいいものを食べさせたいって言ってコストを度外視してたから、よくケンカしたな(笑)。
ーそれにしても、大人数の食事の用意は大変ですよ!
えみり
1回で食べられる人数が決まっていたから、間に合わなくて2回転で作って、多い時は3回転。食器も1回分しかないから、洗ってすぐに盛り付け。食洗器がなかったから全部手洗いで。
新山
当時はヘルパーも多かったからね。みんなもよくヘルパーに来てくれたよな。オーナーが良かったんだろうな…。
ー…そうですね…(笑)。
新山
いや僕も忙しかったんだよ! そのころ10便あったフェリー全部の送迎に行っていたし。しかも朝イチの稚内行きフェリーの出航が6時50分だったから朝食を朝5時頃に出していた。船がいまより小さかったから整理券を配ってて、それが4時から配布。それをフェリーターミナルまでもらいに行って、戻ってお客さんに渡してって。
―夜ちょっと話してたらすぐ朝までつながっちゃいますね。
新山
そうそう。だからオールナイトミーティングと称して朝まで歌ったりしてた。ま、若かったからね。それでお金になるんだし、楽しかった。あと、当時はいまよりも営業期間が短くて5月の連休から9月までだったから、「いまだけ頑張れば」っていうのはありましたね。少しでもお客さんがくればと思って、過剰なくらいサービスしてたかも。それで3800円だった。
ー2食付きで?
新山
そう、当時はそれで人が来たんですよ。安くておいしくて楽しい。少しずつ値上げして、いまは7000円だけど。
ーそんな宿は無敵ですよ~。じゃあ1年で3件しか予約は入ってなかったけど、最初から赤字ではなかったということですか。
新山
赤字ではなかったね。でも1年目は工事関係者も泊めたりしてました。冬は3シーズン本州の工場に出稼ぎに行ったし。4年目には収益が出るようになって、5年目は沖縄に旅行に行ってた。
―順調だったわけですね。
新山
うーん、1年目は「プレユース」っていう新しい形の宿をやろうとは思いつつ暗中模索の日々で。自分の中で具体的な定義が定まっていなかった。だから旅人ではない、工事関係の人を泊めたりもしたんだよね。そんなときに旅の雑誌を見たら、個性派宿みたいな扱いで、いまは同じくとほ宿の「あしたの城」(豊富町)とか3軒の宿が載っていた。それで、泊まりに行ったら「これだ!」って。ユースはヘルパー長とかが仕切っていることが多かったけど、その雑誌に載っていた宿は宿主が出てきて旅人をかまってくれた。それがすごくよかったんですよ。それ以降は、自分の中で宿の定義が定まって、客引きでもバックパッカーだけに声をかけるようになりました。
お客さん同士、そしてお客さんと自分を
つなぐミーティングの時間を大事に
―そうやってだんだん自分のやりたい宿の形を決めていったんですね。夕食後、新山さんを中心に翌日の予定などを話し合う「ミーティング」が行われましたが、とほ宿では珍しいですよね。ユースではよく行われていたようですが。
新山
ユースに自分が泊まってみてお客さん同士が共有する時間があるのがいいと思ったんですよ。あと、実際に自分が宿をやっていると忙しくてなかなかお客さんと個別に話ができない。だから、みなさんの思いに対応できるような時間が欲しかったというのもあります。それを「ミーティング」と称している。
―ミーティングがあることで、その後に新山さんなしでも会話が生まれやすくなりますしね。
新山
そうそう。うち100組くらいいるんですよ、うちで知り合って結婚した人が。僕たち30代で2回仲人してますから。
―それはすごい! 宿主冥利に尽きますね。
新山
そうだね。
―逆に宿をやってて一番大変なのはなんですか?
新山、えみり
食事!
―メニューですか?
新山
材料を集めるのと献立。でも自分もどこかに行ったらそこのおいしいものを食べたいから、極力地元のものを出したいと思うし、連泊とか、何回も来ている人にはなるべく違うメニューを出したいと思う。けど…尽きるよ(笑)。
ーいまはお料理の担当は?
新山
僕。下ごしらえとサラダ、デザートは彼女。
―新山さんは料理の経験はあったんですか?
新山
特にないけど、お袋の味をそのままって感じだだね。ともかく食事は「勝負!」って思ってるから。毎日買い出しに行って、今日はあれにしようかこれにしようかって。それで喜んでもらえれば勝ち(笑)。
ーあはは。えみりさんが星観荘の歴史に登場するのはどのあたりなんですか?
えみり
最初は札幌からお客さんとして来たんです。宿が始まって6、7年のころかな。とほ宿とかユースとか、そういう宿は全然知らなかったんですけど、職場で離島に行ってみたいねっていう話になって。で礼文の観光案内所に電話したら、宿はどこもいっぱいだけど、星観荘ならなんとかしてくれるんじゃないって。
新山
うちもいっぱいだったんだけど、布団部屋を空けて女の子4人を泊めたんだよ。今考えたらあり得ないよー(笑)。
えみり
それで来てみたら独特の空間で、何だろうこの世界は、って。その時はただびっくりっていう感じだったんだけど、やっぱり次の年も行こうと思って、今度は高校の同級生と。ほかのお客さんたちに感化されて3年目にはひとりで。その次の年のGWに行こうと思って連絡したら、ヘルパーをやらないかって言われて、それから2年続けてヘルパーをやったんです。
新山
親父が「めんこ」って言ってかわいがってた人たちだから。
えみり
子ども3人が男だから、女性のヘルパーはかわいがられたんです。
ー結婚することになったのはどういうきっかけだったんですか?
えみり
彦さんのお父さんがその後札幌の病院に入院することになって札幌で会ったら「礼文に来ないか?」って。私はてっきりヘルパーとしてっていう意味かと思ったんですよ(笑)。
新山
ヘルパーが人生のヘルパーに(笑)。
―え、え? 交際期間ゼロでプロポーズだったんですか?
新山
まぁそういうケースもあるということでいいじゃないですか。空気みたいなもんですよ。僕の過去のいろんなこと知ってるから。
えみり
歴代の彼女知ってますから。
―悪行の数々を知られているというわけですね(笑)。
新山
縁と言うかそれに尽きる。最初に泊まりに来た時、たまたま彼女の誕生日でミーティングのときに用意したケーキに2人で入刀したんだよな。
ー未来を暗示していましたね!
えみり
まさか礼文に住むことになるとは思いませんでしたけど(笑)。島に来てからは鳥がおもしろくて。渡り鳥が礼文島を通過するんですけど、特にスコトンは渡りの中継地で鳥が集まる場所なんですって。
新山
鳥好きにはうちの宿はかなり素晴らしい環境らしいですよ。
えみり
私、宿のシーズン中は忙しくてほとんど外に出ないんですよね。2週間うちの敷地を出ていないってこともざら。でも鳥は向こうから来てくれるので。ルリビタキがすごくかわいいんです。ヤツガシラっていう鳥はふわ~ふわ~って飛ぶんですよね。あんまり逃げないので、写真を撮りやすいんです。
新山
春と秋は必ずスコトンを通過するんだよな。珍しい鳥。
ー写真に撮って、名前を調べたり。
えみり
礼文島の鳥のLINEグループに入っているので、名前のわからない鳥がいたら写真を送って教えてもらってます。
ーでも忙しくて敷地から出られないからってところが切ないですね。
えみり
鳥に来てもらって、シーズン中は気分転換をしています(笑)。
お客さんとシーズンオフも遊びたい!
長野の古民家を休館中の拠点に
―宿をはじめてからも、島外で暮らしていたことがあったと聞きました。
新山
宿をやっていない冬の間もお客さんと遊べたらなと思って、長野の小谷村(おたりむら)に家を借りたんです。
えみり
その家には「ミルキーウェイクラブ」っていう名前をつけて、みんなで遊ぶ拠点にしていました。
―どうして長野だったんですか?
新山
大阪、東京、名古屋にお客さんが多かったので、みんなが1泊で来られるところと言ったら長野。小谷村はJRでのアクセスがよかったので、そこにターゲットを絞って建物を探したんです。でもその近くに住んでいた知り合いに相談したら、とりあえず地元に知人を作ってからじゃないと家なんか貸してくれないって言われて1シーズンだけ白馬八方尾根スキー場でリフトのアルバイトをしたんですよ。そうしたら食堂の人と仲良くなって、「空いてる家どこかにない?」って聞いたら「ある」って(笑)。「貸してよ」って言ったら「いいよ」って言うから、とんとん拍子に決まった。その人とはいまでもお付き合いしてます。
―アドバイスに従ってよかったですね!
新山
みんな週末ごとに来るから、なんだかんだ言って長野も忙しかったよなぁ。まぁ僕は日中スキー学校にアルバイトに行っていて、その間、みんなは好きに過ごしてたし、シュラフ持ってきて雑魚寝してたから宿の忙しさとはちょっと違っていたけど。
―宿泊料があったわけではないんですよね?
えみり
光熱費だけもらって、夕ご飯は割り勘でっていうことにしてました。
―東京の八王子にもいたことがあると伺いましたが、それはいつのことなんですか?
新山
36歳で結婚したんだけど、その後だね。礼文の宿もボロボロ、長野の家もボロボロで。結婚したばかりでこれじゃあえみりがかわいそうだっていうことで、2年半くらいかな、八王子に部屋を借りて冬だけ暮らしていました。長野には週末だけ行って。
―3拠点での生活…。イマドキな暮らしじゃないですか(笑)。
新山
時代を先取りしてたのかな(笑)。
えみり
「俺は東京ならどこでも知ってるよ!」って言う割に、ふた冬いて1回銀座に連れていってくれたくらい。ここが東京なのかなって思ってましたけど(笑)。
新山
週末は長野に行かなきゃいけなかったし、平日はそんなに遊んでもいられなかったから。
―時間はあったんじゃないんですか?
新山
学校に通ってたんです。簿記を習ってた。確定申告もそうだけど、簿記は基礎知識がないとちんぷんかんぷんだから。
―はい、ちんぷんかんぷんです(笑)。
新山
だからちょっと知識ほしいなと思って簿記の学校にふた冬通ったの。資格は考えないでもなかったけど、もう30過ぎてたからいまさら面倒くさいなっていうのもあったし。もう次の宿の建物のことを考えていたからね。
―36歳くらいで2軒目の予定を立てていたんですね。すごーい! でも仕事漬けの人生というわけでもなく。すごく…生き方に余裕がありますよね。
新山
暮らしに余裕があるのとはまた別だけど(笑)、人生悲観的に考えてないし、なんとかなるって思ってる。まぁ基本楽しくあればいいというのがあるから。当時、次は長野に宿を建てようと思っていたんですよ。そうすれば1年中営業できるじゃないですか。ただその頃、親父とお袋の調子があまり良くなくて、結局礼文島で宿を新しく建てることに。でも今となっては正解だったと思いますよ。礼文だったら短期間である程度の収益性はあるので。
―夏は礼文、冬は長野、という暮らしはいつまで続いたんですか?
えみり
子どもの学校のことを考えたら、そういう生活は続けられないなって。娘が2歳のときに長野を引き上げました。
新山
いまから21年前まで。僕が30歳のときに行きはじめて、42歳までだね。
―じゃあ長野に12年!
新山
だって楽しかったもん。温泉行ってもいいし食べ物はおいしいし遊べるスポットたくさんあるし。
―新山さんは2年前、朝日新聞に「人は人を旅する」というテーマで寄稿されていましたよね。
新山
星観荘に泊まってくれたお客さんの旅の思い出は、その人と僕が半分ずつ持っていると思うんだよね。お客さんは自分の分だけだけど、僕は宿泊してくれたお客さん全員の分、何百、何千って持ってる。だから秋になると悲しくてね。半分だけ持っている思い出が愛しすぎて。その思いがどんどん膨らんできてつらくて。それで長野に行っちゃえって。
―きっかけこそ家庭の事情でしたけど、結局宿業は新山さんにぴったりだったんじゃないですか?
新山
どう表現していいかわからないけど…島には特有の寂しさ、閉塞感みたいのがあるんだけど、お客さんと話していると、どこか社会とつながってるって感じられるんだよね。
―そういう意味でも礼文に戻るっていう選択をした時点で、宿を開業したのは正解だったかもしれせんね。
新山
そうだね。島にも友達はいるけど、夏は忙しいし、冬はいないしで、結局長く付き合っているのはお客さん。それでまたみんな仲いいからな。
―宿業は天職だったんじゃないですか?
新山
昔はそう思ってた。
―今は?
新山
自分が培ってきたものだと思ってる。天職って、天から降ってくるように思っていたけど、自分がつくりあげるものなんだって、年を取ってからわかってきた。昔はわからなかったことが納得できるようになって、年を取るのが好きになりました(笑)。
2019.4.2
文・市村雅代